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明日死ぬかもしれないと思って生きること。

「明日死ぬと思って生きなさい。」

かつての偉人がこんなことを言ったらしい。

今でも、この競争社会を駆け上がった者たちは、同じフレーズを口にする。

このフレーズ、頭ではよく理解できる。

昨日までの人生を悔いなく生きられているかというと、そんなわけがない。なので、今日からの人生はもっと悔いなく生きたいと、いつもそう思う。

けれど、どうしても心では、もやもやとした違和感が生じてしまう。

いくら「明日死ぬかもしれない」と思っても、普通に生きているだけで余裕がないから、怠惰な気持ちが勝ってしまう。

ずっと頑張れるほど、私の心は強くないのだ。

そんな私はいま、仕事で苦境に置かれていた。

私はこの4月に転職し、2か月目となる。

なんとか周りに喰らいつこうと必死だけど、なかなか仕事を覚えることができない。

仕事がこなせないまま新しい仕事が入ってきて、処理が追いつかない。

それに追い打ちをかけるように周りから、私へのため息が聞こえる。

過労とともに、精神がすり減っていき、休日であっても不安に苛まれる時間が続いていた。

ゴールデンウィークが明け、私は頑張り疲れ、テンプレのような五月病を患っていた。

とにかくゆっくりさせてほしいという気持ちばかりが募り、私の心には「明日死ぬかもしれない」なんて思える強い意志は、1ミリも無かった。

そんな面持ちで迎える日曜日の朝、その日は父母が私の家に来る予定だった。

私はいつものように、寝ぼけながら、スマホのアラームを止めた。

ほんとはもっと寝たい。でも、父母に連絡しなきゃ。

そう思って、うつ伏せのままLINEを開いた。

-おじいちゃんが死んじゃった。

そこには、予想だにしない文字面が並んでいた。母からのメッセージだった。

享年95歳。母方の祖父が亡くなった。

世間では、長寿を全うしたと言われる年齢だろう。

しかし、祖父が亡くなった報せを受けても、信じることができなかった。

あまりにも、突然の死だったからだ。

年齢に抗えずに祖父の体は衰えていたものの、歩行器があれば、実家に住めるくらいには元気であった。

そして、年相応に認知機能も衰えていったが、普通にコミュニケーションも交わせていた。

祖父の死の前日。朝から、祖父と母が挨拶がわりの喧嘩を交えていたそうだ。

その日は、ショートステイで福祉施設に祖父を預ける日だった。

-いってらっしゃい。

母はいつものように、祖父にそう言ったそうだ。でも、それが最後の言葉になってしまった。

その翌朝、祖父が目覚めることはなかった。

検死によると、肺に異変が起こり、呼吸ができなくなって急逝したそうだ。

私はというと、二週間前、祖父に会ったばかりだった。

なので、病院に運ばれた祖父の遺体を見ても、寝ているだけのような感じがして、一番悲しいはずの母でさえ、祖父の死に顔を見て呆然ぼうぜんとしていた。

祖父は死んだ。それは誰も疑っていない事実だ。だけど、いつか目覚める気がする。

家族がみんな、そんな気持ちを抱えたまま、葬式の日を迎えた。

雲ひとつない晴天。

葬儀場は河川敷の近くで、駅からは遠かった。心配性の私は、早めに家を出たせいか、家族の誰よりも早く到着してしまった。

早くから準備していた葬儀場の職員が、私に気付き、葬儀場の中に入れていただいた。

-おじいさまの顔、見られますか?

職員の方は忙しそうにしていたが、手持ち無沙汰の私に気を遣ってくれた。

そして、祖父の顔をいち早く見せていただいた。

綺麗な化粧を施された、祖父がそこには居た。今にも動き出しそうだった。

あたりを見渡すと、最近撮った祖父の満面の笑みの写真に、祖父が大切にしていたビデオカメラや帽子が置かれていた。

それでも、祖父が死んだという実感が湧かなかった。ついこの間、実家で祖父と会ったときに、私の目に映っていた風景とほとんど変わらなかったからだ。

違うのは、祖父が化粧をしていることだけだった。

そうこうしている間に、参列者がちらほら見えた。

私は、とっさに受付役であることを思い出して、参列者の対応を始めた。

そして、感情が揺れ動くことはないまま、あっという間に葬式が始まってしまった。

お坊さんのお経、それからお焼香。

既に参列者で泣いている人もいたが、私は涙が出なかった。

隣にいた父母も、泣いていなかった。

このまま、何かもやが残ったまま、終えてしまうのだろうか。

そして、葬式も終わりにさしかかる。最後のお別れの瞬間だ。

-祖父のほほに触れてあげてください。

職員が参列者に、そう呼びかけた。私は、そっと祖父の顔に触れた。

冷たかった。人間らしい温かみが、そこにはなかった。

私はさっきまでの感覚が嘘のように、すべてを理解した。

祖父はほんとに死んでしまったのだと。

実家に住んでいたとき、ずっと祖父に可愛がってもらった。

走馬灯のように、思い出が頭によぎった。

私の瞳はダムのように決壊し、涙が止まらなくなってしまった。

一番冷静であった父も、涙が止まらなくなり、まともに参列者への挨拶ができずにいた。

そして、母。

立つこともままらなく、涙とともに「ごめんね」の言葉を繰り返していた。

-最後に感謝の言葉を伝えられなくて、ごめんね。

母の過干渉でずっと悩んでいた私は、長い間、母とのコミュニケーションを拒んでいた。

子どもの頃、母に優しく接することができていたはずなのに、成長するにつれて、そんな簡単なこともできなくなってしまった。

ただ、ここで泣き崩れる母は、いつも見る母ではなかった。紛れもなく、誰かから産まれた子どものひとりだった。

私はそんな母を見て、「大丈夫」という言葉とともに、無意識に母の肩を抱き寄せていた。

母の肩って、こんなにも小さかったのか。

少し時間が経ち、火葬場に移動した一行は、涙も枯れ果てて気持ちが穏やかになっていた。

幸いにも、雲ひとつない晴天のままでお昼に差し掛かり、まるで外は真夏のような天候だった。

季節外れの暑さを肌で感じながら、私はなんとなく、母にこう呟いていた。

-おじいちゃん、あの世に行ったばかりで、お盆にこっちに帰ってくるのは大変だね。

母からは、笑顔でこう返ってきた。

-あんた、そんなお伽話、好きだったっけ?

祖父の葬式の次の週、私は入籍した。

入籍日をずらすことも考えたが、私の母から「ずらさないでほしい」という意見もあり、踏み切った。

とはいえ、相方が遠方に住んでいて今は別居婚という形であるため、周りからすればお祝いムードなのだろうけど、手続きを淡々と済ませた感覚というのが正直なところだ。

家族って、一体何なのだろう。

転職直後で、仕事に忙殺されながらも、ふとそんなことを考えるようになった。

葬式のときに会った兄夫婦は、以前のような仲睦まじさが感じられず、子どもがその仲を繋ぎとめているような感じがした。

母が祖父に感謝を伝えられなかったように、私が母に対して嫌悪感を抱くようになってしまったように、同じ人と長い時間を過ごすと、どうしても関係性は変わってしまうものなのだろう。

だけど、祖父が亡くなって気づいた。鬱陶しいと感じることがあっても、家族はたぶん、私にとって大事なものなのだろう。

「明日死ぬと思って生きなさい。」

このフレーズの主語は、ずっと「私」だと思っていた。

でも、このフレーズの本当の主語は「家族」や「友だち」だったんだ。

目の前の鏡を見ると、一年前とは比べ物にならないくらい、老け込んだ顔がそこにはあった。

私は、あまりに自己中心的すぎたんだ。自分の人生を生きるのに必死すぎて、周りの大事な人が見えなくなってしまっていた。

家族や友だちに、感謝を伝え忘れていないか。

会社の上司や同僚に、言いたいことを我慢していないか。

相手がもし明日死んでしまったら、感謝の気持ちも、怒りの気持ちも伝えることはできない。

我慢して後悔するのだけは、真っ平ごめんだ。

どう思われるかが心配だ。だけど、声を震わせながらでも言おう。

ありがとう、ごめんね。時には、ざけんなよ、と。

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