明日死ぬかもしれないと思って生きること。
「明日死ぬと思って生きなさい。」
かつての偉人がこんなことを言ったらしい。
今でも、この競争社会を駆け上がった者たちは、同じフレーズを口にする。
このフレーズ、頭ではよく理解できる。
昨日までの人生を悔いなく生きられているかというと、そんなわけがない。なので、今日からの人生はもっと悔いなく生きたいと、いつもそう思う。
けれど、どうしても心では、もやもやとした違和感が生じてしまう。
いくら「明日死ぬかもしれない」と思っても、普通に生きているだけで余裕がないから、怠惰な気持ちが勝ってしまう。
ずっと頑張れるほど、私の心は強くないのだ。
そんな私はいま、仕事で苦境に置かれていた。
私はこの4月に転職し、2か月目となる。
なんとか周りに喰らいつこうと必死だけど、なかなか仕事を覚えることができない。
仕事がこなせないまま新しい仕事が入ってきて、処理が追いつかない。
それに追い打ちをかけるように周りから、私へのため息が聞こえる。
過労とともに、精神がすり減っていき、休日であっても不安に苛まれる時間が続いていた。
ゴールデンウィークが明け、私は頑張り疲れ、テンプレのような五月病を患っていた。
とにかくゆっくりさせてほしいという気持ちばかりが募り、私の心には「明日死ぬかもしれない」なんて思える強い意志は、1ミリも無かった。
そんな面持ちで迎える日曜日の朝、その日は父母が私の家に来る予定だった。
私はいつものように、寝ぼけながら、スマホのアラームを止めた。
ほんとはもっと寝たい。でも、父母に連絡しなきゃ。
そう思って、うつ伏せのままLINEを開いた。
-おじいちゃんが死んじゃった。
そこには、予想だにしない文字面が並んでいた。母からのメッセージだった。
◇
享年95歳。母方の祖父が亡くなった。
世間では、長寿を全うしたと言われる年齢だろう。
しかし、祖父が亡くなった報せを受けても、信じることができなかった。
あまりにも、突然の死だったからだ。
年齢に抗えずに祖父の体は衰えていたものの、歩行器があれば、実家に住めるくらいには元気であった。
そして、年相応に認知機能も衰えていったが、普通にコミュニケーションも交わせていた。
祖父の死の前日。朝から、祖父と母が挨拶がわりの喧嘩を交えていたそうだ。
その日は、ショートステイで福祉施設に祖父を預ける日だった。
-いってらっしゃい。
母はいつものように、祖父にそう言ったそうだ。でも、それが最後の言葉になってしまった。
その翌朝、祖父が目覚めることはなかった。
検死によると、肺に異変が起こり、呼吸ができなくなって急逝したそうだ。
私はというと、二週間前、祖父に会ったばかりだった。
なので、病院に運ばれた祖父の遺体を見ても、寝ているだけのような感じがして、一番悲しいはずの母でさえ、祖父の死に顔を見て呆然としていた。
祖父は死んだ。それは誰も疑っていない事実だ。だけど、いつか目覚める気がする。
家族がみんな、そんな気持ちを抱えたまま、葬式の日を迎えた。
雲ひとつない晴天。
葬儀場は河川敷の近くで、駅からは遠かった。心配性の私は、早めに家を出たせいか、家族の誰よりも早く到着してしまった。
早くから準備していた葬儀場の職員が、私に気付き、葬儀場の中に入れていただいた。
-おじいさまの顔、見られますか?
職員の方は忙しそうにしていたが、手持ち無沙汰の私に気を遣ってくれた。
そして、祖父の顔をいち早く見せていただいた。
綺麗な化粧を施された、祖父がそこには居た。今にも動き出しそうだった。
あたりを見渡すと、最近撮った祖父の満面の笑みの写真に、祖父が大切にしていたビデオカメラや帽子が置かれていた。
それでも、祖父が死んだという実感が湧かなかった。ついこの間、実家で祖父と会ったときに、私の目に映っていた風景とほとんど変わらなかったからだ。
違うのは、祖父が化粧をしていることだけだった。
そうこうしている間に、参列者がちらほら見えた。
私は、とっさに受付役であることを思い出して、参列者の対応を始めた。
そして、感情が揺れ動くことはないまま、あっという間に葬式が始まってしまった。
お坊さんのお経、それからお焼香。
既に参列者で泣いている人もいたが、私は涙が出なかった。
隣にいた父母も、泣いていなかった。
このまま、何か靄が残ったまま、終えてしまうのだろうか。
そして、葬式も終わりにさしかかる。最後のお別れの瞬間だ。
-祖父の頬に触れてあげてください。
職員が参列者に、そう呼びかけた。私は、そっと祖父の顔に触れた。
冷たかった。人間らしい温かみが、そこにはなかった。
私はさっきまでの感覚が嘘のように、すべてを理解した。
祖父はほんとに死んでしまったのだと。
実家に住んでいたとき、ずっと祖父に可愛がってもらった。
走馬灯のように、思い出が頭に過った。
私の瞳はダムのように決壊し、涙が止まらなくなってしまった。
一番冷静であった父も、涙が止まらなくなり、まともに参列者への挨拶ができずにいた。
そして、母。
立つこともままらなく、涙とともに「ごめんね」の言葉を繰り返していた。
-最後に感謝の言葉を伝えられなくて、ごめんね。
母の過干渉でずっと悩んでいた私は、長い間、母とのコミュニケーションを拒んでいた。
子どもの頃、母に優しく接することができていたはずなのに、成長するにつれて、そんな簡単なこともできなくなってしまった。
ただ、ここで泣き崩れる母は、いつも見る母ではなかった。紛れもなく、誰かから産まれた子どものひとりだった。
私はそんな母を見て、「大丈夫」という言葉とともに、無意識に母の肩を抱き寄せていた。
母の肩って、こんなにも小さかったのか。
少し時間が経ち、火葬場に移動した一行は、涙も枯れ果てて気持ちが穏やかになっていた。
幸いにも、雲ひとつない晴天のままでお昼に差し掛かり、まるで外は真夏のような天候だった。
季節外れの暑さを肌で感じながら、私はなんとなく、母にこう呟いていた。
-おじいちゃん、あの世に行ったばかりで、お盆にこっちに帰ってくるのは大変だね。
母からは、笑顔でこう返ってきた。
-あんた、そんなお伽話、好きだったっけ?
◇
祖父の葬式の次の週、私は入籍した。
入籍日をずらすことも考えたが、私の母から「ずらさないでほしい」という意見もあり、踏み切った。
とはいえ、相方が遠方に住んでいて今は別居婚という形であるため、周りからすればお祝いムードなのだろうけど、手続きを淡々と済ませた感覚というのが正直なところだ。
家族って、一体何なのだろう。
転職直後で、仕事に忙殺されながらも、ふとそんなことを考えるようになった。
葬式のときに会った兄夫婦は、以前のような仲睦まじさが感じられず、子どもがその仲を繋ぎとめているような感じがした。
母が祖父に感謝を伝えられなかったように、私が母に対して嫌悪感を抱くようになってしまったように、同じ人と長い時間を過ごすと、どうしても関係性は変わってしまうものなのだろう。
だけど、祖父が亡くなって気づいた。鬱陶しいと感じることがあっても、家族はたぶん、私にとって大事なものなのだろう。
「明日死ぬと思って生きなさい。」
このフレーズの主語は、ずっと「私」だと思っていた。
でも、このフレーズの本当の主語は「家族」や「友だち」だったんだ。
目の前の鏡を見ると、一年前とは比べ物にならないくらい、老け込んだ顔がそこにはあった。
私は、あまりに自己中心的すぎたんだ。自分の人生を生きるのに必死すぎて、周りの大事な人が見えなくなってしまっていた。
家族や友だちに、感謝を伝え忘れていないか。
会社の上司や同僚に、言いたいことを我慢していないか。
相手がもし明日死んでしまったら、感謝の気持ちも、怒りの気持ちも伝えることはできない。
我慢して後悔するのだけは、真っ平ごめんだ。
どう思われるかが心配だ。だけど、声を震わせながらでも言おう。
ありがとう、ごめんね。時には、ざけんなよ、と。