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なつかしさと、変わらなさと、時の流れと、思い出と

以前に、というか約5ヶ月前にかつて推していたアイドルのことを書いた。

アイドルを卒業と同時に芸能界も引退した彼女。
概ね卒業したアイドルはがインスタやTwitterなどのSNSなどで卒業後の自分を発信している。

が、彼女はすっぱりと消えた。それは完全にやり切ったと卒業公演で語ったこととリンクしていたし、そもそも不器用で自分から発信することが苦手だったことを思い起こせばそりゃそうだなって納得できた。

だから第二の人生も明るく元気に過ごしていればいいなと思いながらも、彼女と仲の良かった元メンバー(説明がややこしい)のSNSにごく稀に出てくる顔は隠れながらもそれと分かる写真を見て、テンションが上がるという日々が自分のちょっとした推しゴトだったかもしれない。

そんな彼女が唐突にメディアに出てきた。彼女の同期の卒業コンサートの後夜祭への出演。その情報を知った時は心は騒めいた。卒業後全く姿を見せていなかった彼女をメディアを通して見れるチャンスが急に到来したから。

言葉として正しいのかわからないけど、推しというものを失ってからだいぶ時間が経つ。ヲタク的リスクマネージメントとしての推し増しというものはあるし、推し以外の好きなメンバーもいなかったわけじゃない。けど、だからといっていなくなったから昇格することもなかった。それだけ思い入れも深かったんだと思う。
唐突にその日だけその推しが現れる。一種の蜃気楼に胸が踊らないわけなかった。

その週はその瞬間を楽しみに乗り切れたし、その感覚も懐かしさも感じた。
その日の放送時間が近づくにつれ、なんとなくそわそわしたり、100%Voltageなんか聴きながら、爆発させるであろう、その瞬間のテンションを高めたりした。

いろんな思いも騒めきもテンションも画面越しに目の当たりにした久しぶりの推しの姿に弾け飛んだ。
相変わらずの笑顔。時折入るガヤや明るさ、ちょっとした気遣うシーンに懐かしさが胸に迫り、脳裏に思い出が駆け巡っていった。

そんな「なつかしさ」と「変わらなさ」の境界線の中で、時間の経過を感じられたのは彼女の左手薬指に光るものを見つけたことだった。

『ヲタクという生き物は「思い出だけで生きていける」』という言葉があったような気がする。しかし、人は平等に流れている。それはヲタクであろうと、元アイドルであろうとだ。

このことは至極当然のことで、自分自身もいろんな変化があった。それと同時に彼女にも変化があったのだなとすごく感じさせる瞬間でもあった。

ただ実際、左手薬指の光るものの一般的意味は1つだが、真意のほどはよくわからない。それを確かめる術もないし、そこに執着するのはただただ気持ち悪いストーカーに等しいし。

けど、卒業後も楽しく笑顔で日々を暮らしているのだろうなということが見えてくることだけで、本当によかったのだ。アイドルという職業は光を浴びることを辞めることを決めてからが厳しい職業だと思うから。

卒業後の道筋を立てていれば、そんなこともないのだろうけど、どこか糸の切れた凧のようにふらふら彷徨っているようにみえる人。先立つモノを求めてなのかスポットライトを求めて、また舞い戻っていく人。
SNSを見ると改めて後も含めて難しい世界なのだなと感じることもあった。

そんな世界を順風満帆ではなかったかもしれないけど、船を漕ぎきって、降りた先の世界で幸せそうにしている。その姿をほんの少しだけでも見れただけで、良かったし、幸せな時間だったのだ。

この世に絶対はないけれど、また姿を見れるコトはないに等しいのだろう。けど、それはそれでいいのだと今の自分は思っている。
なんだかんだで、その思い出だけででも生きていけるのだろうから。端くれゆえに。


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