コロナ禍も国に補償の義務はない?

昨夜オンエアされたNHKスペシャル「忘れられた戦後補償」。
つい先日、「黒い雨訴訟」の画期的な原告勝訴から、国の強要による広島市、広島県の控訴へと、劇的な展開を見せた直後ということもあって興味深く視聴した。

戦後の補償については原爆の被害にとどまらず、空爆被害や満蒙からの引き揚げ、シベリア抑留など、様々な問題が複雑に絡みあって、ややこしい経緯をたどってきた。そして、補償政策は意図的に捻じ曲げられ見えにくくされたまま秘密のヴェールの向こうにぶん投げられてしまい、その全貌をうかがい知ることが難しいことがよく理解できた。

ただ、はっきりとしているのは、国が一般国民の補償には犯罪的ともいえるほど終始一貫して後ろ向きだったことだ。恣意的な法解釈をし、都合のいい判例を引き合いに出して「国に補償をする義務はない」と一方的に結論づけ、居丈高に開き直ってきたのが戦後補償問題の歴史といっても過言ではない。

個別の補償問題、たとえば今回の「黒い雨訴訟」の判決を不服として、嫌がる市と県に控訴を強要した理由としてあげた「科学的知見」にしたって、その国の「基本政策」を知れば補償を回避したいだけの単なる言い訳、いいがかりに過ぎないことは明白だ。

終戦直後。「どっちのソデを振ったって補償費が捻出できなかった」のを理由に「国民には我慢をしてもらった」といいながら、経済成長がなって予算的に余裕ができてからも、国は頑としてその姿勢を変えることはなかった。

しかし軍人・軍属とその遺族には手厚い恩給が支給されてきたし、被爆者の一部やシベリア抑留者などに対しても補償制度は実現している。
軍関係については、戦後に軍から官僚となった連中が、手前らのために実現したものだったし、遺族に関しては遺族会の数を背景にしたロビー活動が功を奏してのことだったろう。

被爆者については、「さすがに捨て置けない」という心情が働いたのだろうし、うがった見方をすれば、補償の線引きをして対象者と非対象者とを区別することで反核運動の分断を計りたかったという側面もあったかも知れない。

同じ枢軸国であったドイツがすべての軍人や民間人を等しく補償してきたことと比べると、その非人道性は原爆の投下にすら比肩できそうだし、その非民主制は後進国の後塵を拝していそうでもある。

ただし、この戦後の補償問題も「国」という抽象的な概念で語っているうちは、曖昧模糊たるヴェールの奥に逃げ込まれて正体が見えにくくなってしまう。
実際にこれらの補償問題を主導してきたのは、官僚機構であったことは言うまでもない。彼らが国を持ちだして「補償の義務はない」とうそぶき、自分たちの身内である軍とその関係者には大盤振る舞いをし、庶民には煮え湯を飲ませてきたのだ。

先の番組では補償問題にかかわった官僚OBが何人か顔を見せて、言を弄して言い訳ともいえない言い訳、ごたくを並べていたが、そのヤクニンどもが申し合わせたように、暗い廊下の奥から現れたり、衝立の影からご登場されたのは、番組制作者の意図だったのだろう。
「こいつらこそが闇の背後で補償の要求をことごとく潰してきた下手人である」と、ナレーションではいえないのを、映像で演出して見せたのに違いない。

現在のお粗末な状況から、つい忘れがちだが、戦時中は意外に手厚い補償がなされていた。戦時という異常事態では、それが戦意を支える根幹であったからだ。

それが戦後民主主義国家を名乗るようになってから、かえっておろそかにされるようになった不可解の裏には、やはりG H Qの思惑があった。
これらの補償制度が日本の軍国主義を支えた、というのがその表向きの理由だったという。

この方針が、今に至るまで影に日向に戦後補償の基本的なあり方を方向付けてしまった、と言ったら牽強付会にすぎるだろうか。
そのアメリカの意向を都合よく利用してきたのが官僚機構であり、その官僚機構を使って日本を粉骨堕胎してきたのがアメリカだった。

戦後、解体を免れたかった官僚機構は自分たちの保身のために占領側にすり寄って、要求される前から忖度して日本の富と安全を貢いできた。
現今のコロナ禍でも補償を渋っているのは財務省らしいが、それら官僚機構が磐石なうちは、戦後補償どころか日本に真の民主主義が根付くことはないだろうし、国民に真の豊かさがもたらされることもなさそうだ。


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