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#019身近な史跡、文化財の楽しみ方(4)

 今回は舞台を東京に移しまして、谷中付近を巡った時のお話です。昨年ですが東京へ出張へ行った際に、たまたま谷中付近への出張だったので、仕事前に早起きして近隣を散策しました。

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 最初に訪ねたのは寛永寺。以前に徳川将軍家の遺骨についての本を読んだことがあったので、出来れば徳川将軍家の墓を見てみたいと思っていたのですが、要事前予約だったのを知らずに行ったため、徳川将軍家の墓所は見ることが出来ませんでした。しかし寛永寺の敷地に入ったところでこんな石碑を見つけました。


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 「上野戦争碑記」とあります。寛永寺を舞台にした彰義隊と新政府軍の戦いの記念碑です。裏面に建設されたのは明治44年(1911)とあります。慶応4年(1868)5月の戦争から実に44年後の建設です。

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 谷中霊園に行きますと、こういう墓もありました。「岩村通俊墓」。土佐藩出身の明治期の官僚で、北海道開拓などに尽力した人物。岩村三兄弟の長男です。弟に林有造、岩村高俊がいます。岩村高俊は旧名精一郎で、北越戦争で河合継之助と交渉した人として知られています。岩村通俊の雅号が独奕庵といったんですね。知りませんでした。

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 こちらは今年話題の人物ですね。「渋沢栄一墓」。今年の大河ドラマの主人公です。渋沢は徳川慶喜に仕え、明治維新後には一旦は大蔵省に務めますが、のちに財界人となって活躍します。明治以降には徳川慶喜の聞き書きである『昔夢会筆記』を刊行したり、『徳川慶喜公伝』を発刊したりしているので、今に非常に貴重な資料を残した人でもあります。

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 渋沢家の墓域全体。さすが財界人といった貫禄で、非常に広いです。今もご子孫が手入れされているのか、非常に手入れが行き届いていました。

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 ご近所には大隈重信に爆弾を投げつけて、大隈に右足切断の大けがをさせた不平士族、テロリストの来島恒喜の墓もあります。

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 こちらは「俣野景孝墓」。俣野は明治期の大阪府で郡長を務めた人物で、第1回衆議院議員選挙にも出馬しています。これを見つけた時には、おお!と我ながら喜んでしまいました。

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 こちらは徳川慶喜の墓所。非常に広い墓域で、周りを策で囲われています。

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 徳川慶喜の墓は神式で丸い墳墓型です。

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 そのすぐそばには「勝精(かつ・くわし)墓」があります。彼は徳川慶喜の十男として生まれますが、明治25年(1892)に勝海舟の養子となった人物です。墓所が実父・慶喜の墓のすぐそばにあることは全く知りませんでした。

 ついつい、仕事で東京に行ったのに、早朝から墓地でわくわくしてしまうという、人からすれば非常に非常識だと思いますが、仕事柄、墓地も史料となりますので致し方ありません。青山墓地も以前に行った時にわくわくしたのですが、それについてはまたの機会にご紹介できればと思います。

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