#152”貧乏くさい食べ物”の歴史
どこの地方でも同じかもしれませんが、郷土の味というのがあり、その土地の出身者には大事なもの、郷愁を感じるものだと言えるでしょう。その味は、出身地を離れると非常に恋しかったり、あるいは他郷の人にけなされるとむっとされることが多いのではないでしょうか。
著者の周りに、職場の元同僚や、大学の先輩で愛媛出身の人が幾人かいます。愛媛出身の元同僚は、日頃から料理に松山揚げを使っていました。松山揚げは一般的な薄揚げを乾燥させたもので、通常の薄揚げだと一週間ほどしか保存出来ないところを、乾燥させることで風味も良くなり、九〇日ほどもの長期保存も可能となっている食品です。いつ頃の発祥の食べ物かは詳らかではありませんが、少なくとも明治時代には既にあったようです。
愛媛出身の大学の先輩は、愛媛の酒をこよなく愛し、鯛めし、じゃこ天も好んで食べておられました。じゃこ天は、最近は秋田県知事に「貧乏くさい」という食べ物と評されたことで一躍全国にも知られるところとなりました。筆者が愛媛に旅行に行った際に、本場で出来たてのじゃこ天を食べて非常においしかったことを記憶しており、筆者は大阪出身であることもあり、普段からごぼう天やしょうが天などの練り物を好んで食べていることもあるためか、ひいき目もあるかも知れませんが、特に貧乏くさい食べ物とも感じませんでした。
このニュースを見て、じゃこ天というのはいつからあるんだろう、とふと思い、調べてみると、意外と歴史の古い食べ物であることを知りました。
下記URLのサイトによると、慶長二〇年(一六一五)、宇和島に入封した仙台藩・伊達政宗の長男・伊達秀宗が仙台からかまぼこ職人を連れて来たことに始まり、もともとは小さな魚を用いた「てんぷら」と呼ばれていたそうですが、小さな魚=雑魚、じゃこと呼ばれるところから、一九八〇年代に「雑魚天」、「じゃこ天」と呼ばれるようになったとのことです。こちらの説はじゃこ天を製造している各製造業者のいずれもに共通して記されています。
下記の農林水産省のHPの郷土料理を紹介するサイトでも同様の事が記されているので、じゃこ天に関する歴史として、広く共通認識とされているものと言えるでしょう。
じゃこ天の歴史から伊達政宗の息子が出て来るとは思いませんでしたが、これを調べている過程で「てんぷら」という名称についても地方色があるなと感じました。筆者は大阪出身なので「てんぷら」というと、海老の天ぷらなどに代表される野菜や海産物に水溶き小麦粉を衣として油で揚げたものと、ごぼう天やしょうが天などの魚のすり身を油で揚げたものが、同じ名称として併存しています。関東では魚のすり身の方を「さつま揚げ」と呼びますが、当の薩摩国である鹿児島県では「つけ揚げ」と呼ばれています。じゃこ天に代表される魚のすり身の「てんぷら」は主に関西圏でそのように呼ばれていると言われます。このような名称の違いも含めて、全国的に広がっている「てんぷら」は庶民の味として広く親しまれていたと言えるかと思います。