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#064有名人にアタックせよ?!―論文執筆、落穂ひろい

 今回で貴族院多額納税者議員の話は三回目になりますが、今回は東京で会う有名人との関係について触れたいと思います。
 帝国議会の会期中、議員は東京に滞在するわけですが、東京に滞在するということは、中央政界で活躍するスターたちが綺羅星のごとく住んでいる訳です。ということは、政治的な意見を伺いに行く、意見をぶつけに行くということももちろんあったと思いますが、それより何より現代人でしたら、著名人に逢う、そしてサインをもらってくる、という感覚になると思います。当時の人達には、さすがにサインを色紙にもらう、とはならないですが、軸物や扁額に揮毫をしてもらう、ということが多々あったようです。今回取り上げている大阪府で初めて貴族院多額納税者議員になった久保田真吾も様々な人に揮毫をしてもらっています。
 帝国議会には上は皇族から、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の爵位を持つ人々から選ばれた有爵議員、功績により勅任を受けた勅選議員などがあり、その中にはさまざまな著名人が含まれています。国立国会図書館デジタルコレクションで『帝国議会上下院議員名鑑』を見ていただくと、具体的にどのような人が名を連ねているかが確認出来ます。

 久保田真吾の明治二七年(一八九四)の在京中の日記に登場する著名人を何名か上げますと、最も著名な人物として勝海舟が挙げられるでしょう。勝は、旧幕臣で江戸無血開城の立役者であることは説明するまでもないでしょう。久保田は勝に面会して、揮毫を依頼しており、後日引き取りに行くところまでが日記から確認出来ます。
 どうも久保田と勝は以前からの知り合いだったようで、久保田家に伝わっている話によると、鉄道か何かの移動中に偶然知り合いになったとのことです。当時、久保田は地所購入を持ち掛けられており、一つは現在のJR大阪駅付近の地所、もう一つは淀川左岸の地所で、そのどちらを購入するか迷っていたようです。あるとき偶然に勝海舟に出会い、上記のことを相談したところ、淀川右岸の地所は堤防の決壊などがあるため地域の人々が困っているだろうから、素封家としてはそういう地所を購入して地域の人々を助けなければならない、と説かれたようです。それを契機として淀川左岸の地所を購入したのですが、ご子孫の方からは、もしJR大阪駅付近の地所を購入していれば、現在の資産がどれほどになったか、勝海舟も要らないことを入れ知恵してくれたものです、と笑い話にされている様子をうかがいました。現在、江戸東京博物館から「海舟日記」が順次刊行されていますが、現在刊行されているところでは、ざっと見たところ勝の日記にはまだ久保田真吾の名前はまだ見えないようです。もし今後、勝の日記に久保田が登場する場面が現れれば、二人の初めての出会いや、その関係性についても明らかに出来るかもしれませんので、「海舟日記」の今後の刊行に期待したいと思います。
 勝以外に面会している著名人では、冷泉為紀、川田剛、巌谷修、陣幕久五郎が挙げられます。冷泉為紀は旧公家で、上冷泉家の二一代目の当主であり、平安神宮の初代宮司として知られる人物で、歌人でもある人物です。久保田は同年六月四日に冷泉から短冊を受け取っていますので、和歌を書いてもらたのでしょう。川田剛は川田甕江のことで、幕末から明治時代にかけて活躍した岡山県出身の漢学者です。巌谷修は巌谷一六のことで、書家、漢学者、漢詩人として知られた滋賀県出身の人物です。川田、巌谷らは久保田の貴族院議員の同僚として親しく付き合いがあったようで、その後の日記にもよく登場します。陣幕久五郎は幕末から明治にかけて活躍した力士で、幕末には薩摩藩や徳島藩のお抱え力士となった人物。陣幕は明治以降は全国各地で相撲に関する顕彰活動をしており、その関係で久保田も寄付をしているようです。
 明治三〇年(一八九七)の記録によると、近衛篤麿とも関係していました。近衛篤麿はこの時、貴族院議長を務めており、議会開催および終了の際には必ずあいさつに立ち寄る関係を築いていました。そのため、揮毫を依頼出来る関係となっていたようで、『近衛篤麿日記』から揮毫の依頼および受け取りの様子が確認出来ます。
 また、近隣の名望家からも東京滞在中に著名人の揮毫をもらって欲しいという希望を受けており、勝海舟、谷干城、鳥尾小弥太の名前が依頼先として挙げられています。谷干城、鳥尾小弥太は中央の政界で活躍した政治家です。谷干城は元土佐藩士で、明治以降は陸軍軍人、政治家で、明治一〇年(一八七七)の西南戦争の際に熊本城に籠城した指揮官であったことでも知られる人物です。鳥尾小弥太は元長州藩士で、奇兵隊出身の人物で、明治以降は陸軍軍人、政治家としても活躍します。
 このように、東京へ出るということは中央政界で活躍している人物や文化人に会う機会に恵まれるということであり、そこでの人的交流や文物を地域へ持ち帰るといった役割も期待されていたのではないかと考えられます。
 今回、このような内容の論文に含めて書いたわけですが、個人的に面白かったのは、陣幕久五郎について注で記載する際に、参考文献として「ベースボールマガジン社」と記載したことが、学術論文にベースボールマガジン社?!と非常におかしみを感じました。
 

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