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#097鉄道の敷設からみる地図と史料の見え方

 前回は統計資料などを使用して文章を書いたので、数日を要しましたが、今回は以前に読んだ本に関連して気軽に書いていきたいと思います。
 青木栄一『鉄道忌避伝説の謎-汽車が来た町、来なかった町-』(吉川弘文館、2006年12月)という本があり、特に鉄道好きという訳ではないのですが、タイトルにひかれて購入して読みました。よく言われることとして、鉄道を東海道に通すことには、東海地方において海岸線を通ることになり、軍需物資の輸送が海岸からの攻撃などで滞る可能性がるので駄目だと陸軍が反対した、ということなどがあり、また同様の見地から鉄道を山陽道を通すより山間部にある西国街道を通す方がいいという意見があった、という話もうかがいます。

 以前関わった仕事で、『新修茨木市史』地理編で、明治期の地籍図をトレースして提供するという作業を地理編のスタッフがされていて、そこでご教示いただいたこととして、鉄道を敷設する予定だったところのうち、結局敷設されなかった場所は地籍図上で一直線の区画の土地として浮かび上がってくるので非常に判りやすい、という興味深いお話をうかがったことがあります。『新修茨木市史』地理編には、一旦線路敷設用に買収された土地が、結局線路が敷設されずに農地として売却されたという場所も地籍図上で明確に表れている様子がうかがえるトレース図も掲載されています。ご興味のある方は図書館などでご覧いただけたらと思います。

 筆者が仕事で関わった地域で、先に挙げた大阪府の北摂地域や河内地域では「幻の鉄道路線」と言われるものがあります。先の茨木市域を含む北摂地域では、現在のJRの路線が通っている場所の近くに鉄道用買収地の跡があることを例として挙げましたが、北摂では西国街道になぜ鉄道が敷設されなかったのか、という疑問や、あるいは河内地域では現在の大阪外環状線(国道170号線、旧東高野街道)にあたる箇所に南北に鉄道を布設しようとした計画もありました。筆者もこれらの鉄道がなぜ敷設されなかったのかは長らく疑問に思っていました。

 現在、大阪府東部の旧河内国にあたる地域には、もっとも古く敷設されたのが現在のJR関西本線になります。この地域は、江戸時代には大和川が大和国(現在の奈良県)から東から西へと流れ、河内国に入って北上し、現在の東大阪市鴻池元町付近で再度西側へ流れるという流路を取っており、何度も屈曲するので、水害が起こりやすく、地域住民は水害のたびに大きな被害を蒙っていました。その大和川を江戸時代中期に流路の付け替えを行うという大工事を経て、現在のような奈良県からそのまま大阪府堺市の方へ西へまっすぐの流路となり、幾分水害の被害が少なくなります。そのことによって、旧流路には多くの新田が開発され、その新田地で河内木綿が栽培されて、地域の特産品となっていきます。しかし、明治維新以降、海外との貿易が行われるようになり、アメリカやインドから木綿が輸入されてきます。海外産の木綿は国産の木綿と比べて繊維の毛足が長く、糸にしやすく強度も強いという特徴があり、殖産興業政策の推進の中で機械紡績に向いているため、国産の木綿を駆逐していき、地域での木綿の栽培が減少していきます。このような過程で、もともと木綿を栽培していた畑地を再開発して工場地化していきます。その中で工場で使用する原料や製造物の輸送に鉄道を利用しようということで、より近い場所へ鉄道の敷設および駅の誘致が始まります。そのあたりは下記URLの拙稿でも述べていますので、良ければご参照ください。ただ、なぜ誘致が成功したのかは詳らかには出来ませんでした。

 しかし青木栄一『鉄道忌避伝説の謎-汽車が来た町、来なかった町-』において参考になる非常に興味深いことが書かれていました。明治期の鉄道は5‰以下の登坂力しかなかったため、高低差のある場所には敷設が難しかった、とあります。
 この指摘は考えてもみなかったことでした。試みに国土地理院の地理院地図/電子国土WEBで確認したところ、旧西国街道(概ね現在の国道171号線)の茨木IC付近から粟生外院付近までの高低差を計測すると、5Kmで約60mの高低差があることが示されました。つまりこの区間については12‰の坂になっていることが判ります(下図参照)。また、先に触れた旧東高野街道(現在の国道170号線)については全体としては高低差は少ないのですが、場所によっては5‰以上の高低差が発生している個所もありました。

茨木IC付近から粟生外院付近までの国道171号線の高低差

 参考までにJR関西本線の天王寺駅から柏原駅までの高低差も調べてみると、1.6‰となっています。現在のJR東海道線も大山崎駅から摂津駅までを計測してみてましたが、1‰から3‰ほどの高低差の推移を示します。JR関西本線、JR東海道線ともに明治時代以来の路線であるため、非常に高低差の少ないところに線路を敷設していることが如実に表れています。

 明治時代以降、さまざまな個所へ鉄道の敷設が目論まれてきますが、人の動きや物流なども鉄道敷設に対してもちろん大きな影響を及ぼすことなります。しかし、青木栄一『鉄道忌避伝説の謎-汽車が来た町、来なかった町-』の指摘にあるように、技術的な面で可能か不可能か、ということにも注意を払う必要があるということを、自戒の意味も込めて気を付けて史料を見ないといけないと気づかされました。


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