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#037三題噺は今でも通じるのか?ー論文執筆、落穂ひろい

 今回も論文作成の裏話を。

 筆者の出身地は大阪府東部、いわゆる旧国名でいうと河内国になるので、小学校4年生の郷土学習で、江戸時代の大和川の付け替えについて学習しました。小学校社会科の学習指導要領にも、48頁の「第4学年の目標及び内容、1、第4学年の目標、(1)」に「自分たちの都道府県の地理的環境の特色,地域の人々の健康と生活環境を支える働きや自然災害から地域の安全を守るための諸活動,地域の伝統と文化や地域の発展に尽くした先人の働きなどについて,人々の生活との関連を踏まえて理解するとともに,調査活動,地図帳や各種の具体的資料を通して,必要な情報を調べまとめる技能を身に付けるようにする。」と記されている通り、地域の発展や伝統、文化に貢献した人物や事象について学ぶというカリキュラムになっており、これは我々世代の頃から、現在まで続いている学習テーマになります。現在でも、年が明けて3学期のころに授業として行われる地域が多いのではないかと思われます。下記に学習指導要領のURLを添付しましたので、ご興味のある方はご確認ください。

 筆者の小学生の頃には、大和川の学習について既に「三題噺」が成立しており、中甚兵衛という偉人が水害の多い河内地域の対策を幕府に働きかけて実現し、河川の付け替えの大工事を実施して成功、付け替え後の元の河川敷では木綿の栽培が行われて、商品作物の栽培が盛んになることで地域産業としての木綿業も勃興して豊かになっていった、という流れになっていて、中甚兵衛、大和川付け替え、河内木綿という3つのキーワードで学習されていたかと記憶しています。

 大和川の付け替えが宝永2年(1705)であったので、2005年には大阪府下の関係する各自治体では、大和川付け替え300年の記念展覧会などが催されました。折角の記念の年ですので、今まで通りのお話で展覧会や講演会を開催するのももったいないということで、早い時期から様々な史料調査が行われ、最新の研究成果を反映した展覧会、講演会を催そうと、各自治体でこぞって調査、研究を行っていました。筆者もその一つに協力して調査、研究、展示を行いました。

 その際には、筆者としては、三題噺だけで大和川について語っていいのだろうかという視点から、習わなかったことにどんなことがあるのか、ということで、当時の河川にまつわる周辺事情をいろいろと調べてみました。地域としては川と共に生活をしている訳ですから、河川付け替えの功罪の両面が出てきます。そもそも河川沿いの地域は河川を利活用して生活しているため、水車による脱穀、製粉や船による水運業などが発達していました。しかし、それらは河川付け替えを行うことで河川の水量が減少し、これまで通りの水車や舟運の運用が出来ずに打撃を受けるという面が出てきます。逆に付け替え前に元々これらの産業から悪影響を受けていたという面もあり、例えば水車を利用することで、川上では水車運用をよりやりやすくするために水を堰き止め、そのことで川下は田畑に農業用水が引きにくくなるということが起こったり、あるいは、舟運にしようする川舟は現在のわれわれの想像では櫂でこいでいるイメージだと思いますが、近世の舟運では、櫂を使用する以外にも岸から紐によって人力で引くことで船を動かすということも行っていました。そのため、引き船の人足によって河川ぎわにある田畑の畔が踏み荒らされて田畑の水漏れなどが起こる、といった被害もありました。これらにマイナス面については、付け替えによってその産業が衰退することで被害は減少する、という結果も発生していました。これらについては、依然ご紹介しました論考にも記載してありますので、ご興味のある方はご覧いただければと思います。

 いずれにしても、河川沿岸地域は、付け替え前も付け替え後も河川との関りは変わらず密接であるため、河川隣接地域であることを上手く利用しつつ、住民生活を送っていたと言えます。河川から利益を得ていた人々と河川から損害を被っていた人々は、当然のことながら利害が一致しないため、自然的条件や人為的条件に折り合いをつけながら河川と共に暮らしていった、と言えるでしょう。勧善懲悪の英雄譚ではないので、どちらか一方の物語が解決してめでたしめでたし、ではないのが現実であるため、すっきりとしない話と感じるかもしれません。しかし、実際には、この大和川の付け替えを行ったからといって洪水が皆無になったかといえば、以前よりは減少、あるいは軽減されはしますが、皆無になったわけではありません。また、大和川近隣住民のうち、河川から利益を得ていた人たちは河川付け替えでどのような損害を被ったのか、損害を被ったからといって他の場所へ移住する訳ではなく、その後も同じ地域に居住し、生活を続けていきます。これらの人々はその後どのように生活をしていったのか、という疑問点も残っているかと思います。(これらの疑問については、別稿で取り上げていますので、また別な機会にご紹介することにしましょう。)

 あることが解決したからと言って、それで全てが丸く収まるのか、というとそうではない、ということは小学生の学習で教えるにはなかなか困難なことかと思います。しかし、物事を単純化して判りやすくすることに集約する「三題噺」だけで片付けてしまうと、それこそ英雄史観的な見方、一方的な見方にのみに偏ってしまう恐れもあるでしょう。他の視覚、他の視点もあることも提示することで、様々な視点や立場のあることも、これからの人たちには学習していってもらえたら、というように感じます。

 今回紹介の論考では、テーマ先行で論考作成していったという例になるかと思いますが、自身の小学生時代の学習に鑑みて、何がテーマとして扱えるかというところから、立論の楽しさのようなものを学べた小品であったと思います。このような小さな疑問からでも、いくらでも楽しい話が出来る、無限の楽しみのある世界、とも言えるでしょう。

いただいたサポートは、史料調査、資料の収集に充てて、論文執筆などの形で出来るだけ皆さんへ還元していきたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。