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#063会期に上京して役得を得る?!―論文執筆、落穂ひろい

 前回は、貴族院多額納税者議員がどのようにして選ばれて、会期になれば上京し、議会でどういう席次になっていたか、について紹介しました。
 今回は、議員として会期にどのような動きをしていたかについて紹介したいと思います。

 大阪府選出の多額納税者議員の久保田真吾には東京滞在中の日記として明治二七年(一八九四)のものが残されています。ここから東京での動きについて見てみましょう。
 東京へ行くということ自体が、かなり特別なことであったでしょう。久保田自身は出身地域から出ることも少なかったようで、遊学に出たのも大阪府下の堺程度なので、東京への上京となると相当遠方への遠出ということで、折角遠出したのだからと、空いた時間を利用して観光もしていたようです。日記からは日光東照宮を見学に行っている様子や横須賀の軍港を見学している様子が描かれています。折角上京したのだからという、役得といったところでしょう。少し例としては変わりますが、山村竜也『幕末武士の京都グルメ日記 「伊庭八郎征西日記」を読む』(幻冬舎、二〇一七年七月)によると、幕末の剣豪である伊庭八郎が京都に上京した際にも、日記によると、後の勇ましい様子よりはいわゆる観光名所を片っ端から見学して行っている様子が見て取れます。当時としては空いた時間に役得を得るというのが一般的だったのでしょう。

 議会が始まると、議会関係で近隣の議員を訪ねています。主に議会活動においての事前調整と思われます。このころは河川法や地価修正、旧士族の復禄問題などの課題があり、出身府県の利害が一致する人たちと緩やかに連合していっているようです。というのも、衆議院議員のうち、大阪から選出されている議員とも面会しており、特に自由党系の議員とも面会しています。つまり、どうやら地域の利害のために党派に関わりなく連携して、出身地域の問題解決のために協同して奔走していたと言えそうです。何となく貴族院議員は保守的で、衆議院議員、特に自由党系の人々とは対立関係にあるのかという印象が持たれるかと思いますが、実際はそうではなく、地域の利益追求のために協力関係を築いていたと言えます。
 また、議会会期中に、大阪府の府会議員が上京してきて、議会を傍聴するために傍聴券を分けてもらうために訪問されています。これは、衆議院議員、貴族院議員ともに一定の枚数の傍聴券を分け与えることが出来るようになっており、特に出身府県の各議員から分けてもらう目的で訪問されています。これは地域の問題が国政でどのように議論されているか、ということを正確に理解のために実際の議会を聞いてみる、といった目的から傍聴券を求めて来ていたようです。
 あるいは、地域利害の代弁者として請願書を提出してもらうために議員を訪ねる人たちもいました。先の回で書きました、地価修正や河川法、旧士族の復禄問題などで作成してきた請願書を議員に託して議会で配布してもらうということもしばしば行われています。国会議員というものが初めて誕生し、議会が出来て日が浅いということもあり、議員が地域利害の代表、国民の代表という感じがして、非常に新鮮な印象を受けます。
 では、議会ではどのように活動していたかというと、『帝国議会貴族院会議筆記』を見てみますと、議会ごとに委員会に任命されたりしていますが、当選した明治二三年(一八九〇)から任期最後の明治三〇年(一八九七)まで、会議録の中で発言の記録が全くありませんでした。ここから考えられることは、いくつか掲げることが出来ると思いますが、まず一つ目として類推が許されるのであれば、地方政治と国政の違いというのがあったのではないか、ということがあったのではないか、という点です。各府県で県会議員、府会議員を務めている人物たちは、いわゆる地方名望家層と呼ばれる、江戸時代に庄屋などを務めていた地方政治、地方行政に携わってきた人たちです。彼らは小規模な範囲での調整に携わってきており、これを地域という地縁血縁などで関係する境域として対象としてきたために、広範囲での調整を得意としなかったのではないでしょうか。次にその調整をする技術として、演説をして不特定多数の人々を得心させるというものを持たなかったのではないか、とも考えられます。これらの点では、これまで中央政治で活躍してきた勲功によってえらばれた議員や、明治初年から中央の政界でもまれてきた人々には一日の長があったと思われます。それらの様子を見ているうちに、中央政界での立ち位置が、積極的に発言をしない「静かなる多数派(silent majority)」として立ち振る舞うようになったのではないだろうか、と想像させます。あくまでこの部分は推測にすぎませんので、今後の課題としておきたいと思います。また、あくまでこのような動きになった議員については、全員がそうだったとは申しません。久保田真吾個人のパーソナリティに基づくものかもしれませんので、普遍的な動きなのかどうかについても、他府県の議員の動きを分析しないと分かりませんので、その点も留保しておきたいと思います。
 以上、見てきたように、当時の議員の活動の様子の一端を紹介しました。今も昔も議員には役得というのがあり、また様々な人が訪ねてくるので院外活動というのも当時から活発に行われていた、という様子や中央政界ではなかなか活躍の場がなかったような様子を感じていただけましたでしょうか?今回はこのくらいにしまして、次回のあと一回、この落穂ひろいを書いてみたいと思います。

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