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【小説】柳田知雪「海を斬りに」

文芸誌Sugomori 2023年春号では
「上京」をテーマにした作品を掲載いたします。
さまざまな上京にまつわるお話をぜひお楽しみください!

「海を斬りに」

──10年後の大津波で日本は沈没する。

 最初は見向きもされなかったSNSでの投稿が、いつしか大きな波紋を呼んだ。
 投稿者である科学者の加茂野大地が地震予知研究の第一人者であり、翌日には跡形もなくアカウントごと投稿が消去されていたこと。それと同時に彼が突然行方をくらましたことから、ネット民の中では陰謀論が一気に膨らんでいった。

 大津波は事実で、到底日本の全人口を助ける手段などなく、政府は国民を見捨てるつもりなのでは? 事実を知った政府の上層部だけが日本脱出計画を測っているのでは? ……と。

 大津波の予言を信じる者は増え、富裕層は次々と海外へ逃げていった。残ったのは広がった経済格差のせいで逃げる資金もなかった人々だ。
 国内の治安は荒れ、殺人強盗も珍しいものではなくなった。それは都市でも田舎でも関係ない。

 山と海に挟まれた、とだけ言えば長閑な町。そんな町も例外なく荒れ、今日も仲のいい夫婦が営んでいたとある定食屋が強盗に襲われた。

「もらえるものは全部もってけ!」

 強盗のひとりが仲間に指示し、店中の金目になりそうなものや食料を袋に詰めていく。
 一歩踏み出した男が定食屋の旦那の腕を踏みつけ、その様子をホールの隅で倒れ伏した嫁が視線だけを送った。
 胸から流れ出す血の海に倒れた旦那は、どれだけ踏みつけられてもピクリとも動かない。こと切れてしまったのだ、と嫁は唇を噛みしめ、腕の中の我が子へと視線を戻す。

「まま……?」
「大丈夫よ、リト。ちょっとの、辛抱だから……」

 嫁もまた背中を刺され、血で真っ赤に身体を染めていた。全身が冷たくなり、意識が朦朧とする中で、我が子の小さな温もりだけが感じられる。
 リトだけはどうか健やかに、たとえ日本が沈んでしまったとしても元気に生きてほしいと夫婦は願っていた。それなのに、まだ5歳になったばかりの我が子をこの荒れた場所に遺していってしまう。
 そんな絶望の中で、その場に似つかわしくない軽快な声が響いた。

「まったく、人が気に入ってた定食屋にひどいことしてくれる」

 嫁はその声に聞き覚えがあった。最近、店によく来てくれる不思議な雰囲気を纏う青年の声だ。
 危ない、逃げて。と胸の内で叫んでいたが、強盗たちの怒号がそれを掻き消す。
 強盗と彼のもみ合いになるかと思いきや、次の瞬間には強盗の声は悲鳴へと変わった。
 子供を必死に抱き締めるだけの彼女には何が起こったのか分からなかった。しかし、店に静寂が戻った頃、青年がわずかに息のある彼女の元へやってきて身を屈める。

「息子のために盾となったか……強い母だ」

 自分よりも年下に見える彼の言葉は、まるで仙人か何かにかけられる言葉のようだった。
 強盗を追い払ってくれたことに、ひとまず安堵する。しかし、まだ気を抜くわけにはいかなかった。少しでも気を抜けば、そのまま煙のように意識が消えて二度と戻ってこれなくなりそうだったからだ。

 そして、この母にとって彼は唯一の希望の光に見えた。店を訪れていた彼は物腰が穏やかで、気さくに会話を交えたこともある。そして何より、先ほど垣間見た腕っぷしの強さは、この荒れた時世で何よりも頼りになる。
 呼吸さえままならない肺から、何とか声になるだけの空気を送り出して彼女は縋るように呟いた。

「お願いします、息子を、リトを……どうか」

 一瞬、青年に躊躇う空気を感じるも、他に頼める相手などいなかった。半ば無理矢理リトを押しつければ、ぎこちなくも彼は抱き上げてくれる。
 その様子にほっとした瞬間、視界が黒く染まった。もう指先ひとつ動かす気力もない。

「……美味い飯を食わせてもらった礼だ。俺に務まるかは分からんが」
「ありが、う、ござい、す……」

 曖昧な意識の中で聞こえた青年の声に、つうっと涙が頬を伝った。それが最期に感じた自身の温もりだった。
 息を引き取った母に呼応するように泣き出したリトを、青年──オウカはまた慣れない仕草であやす。リトが泣き疲れて眠るまで、オウカは熱く燃えるような小さな背を撫で続けるのだった。

 それから6年後。
 慣れないながらも子育てを続けたオウカのおかげでリトはすくすくと成長した。定食屋も改装し、今や10を過ぎたリトが立派に店主を務めている。

「オウちゃん! 俺、買い出し行ってくるから!」

 厨房からリトが声を張り上げてくる。トントンと気だるげに階段を下りてきたオウカは、のんびりとあくびをしながら笑った。

「ひとりで平気か?」
「その辺のチンピラなら平気だって」

 買い物リストをポケットに仕舞うと、リトは店先に立てかけてある短い木刀を背中に刺した。
 リトが定食屋を再びやる、と言い出した時、オウカは最低限の護身術を仕込むことにした。無法地帯となった現代に、自分を守る力を持つことに越したことはない。実際、リトは筋の良さと本人の勤勉さもあって、確かな実力を備えていった。

 6年前のオウカは、飯の礼と身を挺して息子を守った母への尊敬の念からリトを育て始めた。しかし、一緒に生活するとは不思議なもので、年を経るごとにただリトが立派に育っていくのを見届けようという気持ちだけが残っていった。
 父であり、兄のような気持ちを抱えながら時は過ぎ、気付けば大津波が来るという予言の10年は目前に迫っている。

「じゃ、行ってきます」

 リトが店の扉を開くと、目の前にはひとりの男が立っていた。
 こんな田舎町ではなかなか見ないスーツ姿に、リトがたじろぐように数歩後ろに下がりつつ背中の木刀に手をかける。そんなリトを背に隠しつつ、オウカが男の前に立ちはだかった。

「うちはまだ開店前なんだがなぁ」
「定食を食べに来たんじゃない。お前に用があってきた」

 髪を後ろに撫でつけた男は、窪んだ眉の下から鋭い眼光でオウカを睨む。
 威圧感のある男の視線を怯むこともなく、オウカはどこか見覚えのあるその顔を眺めた。あっちこっちと記憶の引き出しを開いていたが、答えを見つけるより先にリトが「あ」と短く声を上げる。

「その顔、加茂野大地だろ!」

 その指摘に、オウカはようやく記憶の引き出しを探しあてた。
 日本に大津波が来ると予言した研究者、加茂野大地。その顔と目の前にいる男の顔は瓜二つだった。

「私は加茂野空良(そら)。大地は弟だ」
「で、その弟さんが何の用で?」

 加茂野が手元の鞄から封筒を差し出す。見たこともない上質な紙の封筒に、オウカは手を伸ばそうとはしなかった。手に取れば、何かが変わってしまう気がした。
 しびれを切らした加茂野は近くのテーブルに封筒を置くと、改めてオウカに向き直る。

「勅命。舞草(もくさ)桜火(おうか)を征畏大将軍に任命する。ただちに上京せよ」

 あぁ、やはり。と、オウカは久方ぶりに聞いたその言葉に目を伏せた。
 様々な光景がスライドショーのように脳裏を過っていき、光景と紐づいた感情が胸の中でぐるぐると混ざり合う。感情は鉛のように質量を持ち、その場で踏ん張らなければ重みで地面にしゃがみこんでしまいそうだった。

「チョクメイって何?」

 首を傾げるリトの声にオウカははっと我に返る。目の前の加茂野と斜め後ろからリトの視線を受けながら、オウカはテーブルの上の封筒を鬱陶しそうに見遣って溜息を吐いた。

「天皇からの命令って意味だ」
「テンノーって、あの天皇!? しかも、征夷大将軍って、武士の統領みたいな? 今の時代に武士?」
「お前の言う通り、いろいろあって武士の統領になっていったが、元々の意味は蝦夷を征服する将軍に与えられる称号だ。この男が言っているのは元の意味から派生した征“畏”大将軍で、平定すべきは蝦夷じゃなく畏れ。つまり厄災……だろ?」

 オウカの質問に、加茂野は頷き返した。
 しかし、事態を飲み込めないリトはうんうんと唸り声をあげる。

「なんでオウちゃんがそんなのに……ってか、妙に詳しくない?」

 何から説明するべきか、オウカはすぐに答えを出せなかった。代わりに説明を始めたのは加茂野だ。

「彼は平安時代以降、何度も征畏大将軍に任命されている。そしてその度に今回の大津波と同じく厄災から国を救ってきた」
「平安時代??? 今を何年だと思ってんだよ。それじゃあまるで、オウちゃんは……」
「彼は不老不死だ。ざっと千年は生きている」
「千……!?」

 加茂野の言葉に、オウカは苦虫を何十匹も噛み潰したような顔をした。背中にいるリトを振り返れば、目を丸くしたままオウカを見上げている。
 真ん丸と透き通った黒目の中に困惑やら好奇心やらが入り乱れるのが見えて、オウカは余計に何も言えなくなった。

「彼の存在の非現実さから、国が発展するにつれて舞草桜火はただの伝説になってしまった。国の上層部の誰かひとりでも彼の存在を信じていれば、救えた災害もあるかもしれないが……」

 救えたかもしれない災害……その言葉に、オウカの胸はまた少し重みを増した。先ほどのスライドショーよりも、もっとゆっくりと絵本のページをめくるように、泥と燃え上がる火の色に塗りつぶされた景色が鮮明に思い起こされる。そこではいつも、耳を覆いたくなるような悲鳴と泣き声が聞こえた。
 その景色の中で死ぬことさえできずに、ただ立ち尽くす存在。
 それが、伝説となった舞草桜火の姿だ。

 桜火を征畏大将軍たらしめるのは、彼の生まれ持った強靭な不老不死の肉体と皇居に保管されている刀の力だった。
 刀はいわゆる妖刀で、持ち主から常人ならざる力を発揮させるが、代わりに多大な生命力を要した。そんな妖刀の扱いに唯一耐えられたのが、人と怪異が混沌とした平安の時代に生まれた不老不死の桜火だ。
 厄災を平定した後は、桜火が変な気を起こさないよう刀は献上という名目で没収された。征畏大将軍がただの伝説となると勅命を受けることもなく、刀も伝説の飾り物となってしまったのだ。

 しかし、厄災を相手に戦ってきたオウカは厄災の気配に敏感だった。
 厄災が近付いてくると、引き寄せられるようにその地に赴く。だが、肉体はあっても刀がない。無力なまま目の前で起こる災いを目の当たりにし、数人を抱えて逃げることが精一杯だった。

 それをもう幾百と繰り返して、桜火の心はすり減っていった。今さら刀を与えられると言われても、「今度こそ」と奮い立つだけの気力はない。そうして、ふらふらと日本を彷徨っていたのが今のオウカだ。
 そんな彼に、加茂野は熱を込めて喋り始める。

「弟が研究で過去の資料を調べるうちに君の存在を見つけた! ようやく、天皇陛下への進言が通ってここまで辿り着いたんだ。頼む、今すぐ俺と来てくれ、舞草桜火……!」

 懐かしい名だと思った。
 だが、それだけだった。

「オウちゃん、どっか行っちゃうの?」

 背中を掴むリトの呟きに、オウカはまだ小さな彼の背へ手を添える。

「行かないさ。今の俺はリトの兄ちゃんだからな」

 その言葉に、リトはほっとしたように頬を緩めた。
 そして、オウカはテーブルに置かれた封筒を掴み、加茂野へと突き返す。

「俺に国を救えるような力はない」

 オウカが加茂野を外に押し出そうとするが、力のあるように見えない彼は必死に扉の枠を掴んで抵抗する。

「待て! 津波はもういつ来てもおかしくない、他に方法なんて……!」
「こっちはこっちの生活を守るので必死なんだ。国なんてデカすぎる」
「津波が来たら、生活も何もないだろう!」
「その時はこの子を背負いで大陸まで泳いでいくさ。厄災は斬れなくとも、身体だけは丈夫なんでね」

 外には追い出したものの、加茂野はじっと店の前から動かなかった。
 定食屋を休業にしたオウカとリトは、二階の窓から日が暮れても動こうとしない加茂野を眺める。

「あの人、いつまでいるんだろうね」
「さぁな」
「オウちゃん、織田信長見たことある?」
「……遠目にちらっとだけ」
「すっごーい! どんなだった!?」

 無邪気に聞いてくるリトにオウカは苦笑する。
 すぐに不老不死なんて素性を信じるのは幼さゆえか、それとも6年間一緒にいることで直観的に異質なものを感じとっていたのか。
 特段、オウカにこのことを隠すつもりはなかった。だが、自分から喋ろうとも思わなかった。そんな態度をどう受け取られるかと心配していたが、リトにとってオウカはオウちゃんのままらしい。

 日がとっぷりと沈んだ頃。リトのあくびが増えてきて、オウカが2組の布団を並べて敷く。
 もぞもぞとリトが布団に入った時、ガタンと家全体が音を立てて揺れた。徐々に大きくなる揺れに、リトは悲鳴のような叫び声を上げる。

「オウちゃん……!」

 怯えるリトを布団ごと包むように抱き、オウカは揺れが収まるのを待つ。棚からぼとぼとと小物や本が落ちるのを見ていると、揺れは少しずつ小さくなっていく。
 最後に本が1冊、バサリと棚から落ちて、オウカは腕の中にいるリトがふっと緊張を解くのを感じた。

「津波が来る……?」
「大丈夫だ、まだ来ない」

 オウカの厄災へのセンサーは、まだその時を示してはいなかった。しかし、こうして近頃増えている地震は間違いなく予兆なのだと察している。

 完全に揺れが収まって、改めて眠りにつくために明かりを消す。おやすみ、と声をかけあって沈黙が降りた室内で、リトのか細い声が零れた。

「天皇のとこ、行かなくていいの?」
「いいんだよ。国よりお前の方が大事だ」

 枕で柔らかい頬を潰しながら、リトはオウカを見上げる。
 リトはひとりで店を回せるし、買い出しだってできるようになってきた。けれど、まだあちこちに幼さが残って、オウカはついそんな彼を抱き締めたくなってしまう。
 征畏大将軍として上京すれば、この身がどうなるかは分からない。不老不死とは言え、厄災との闘いは別だ。過去の戦いでの傷は未だ身体に残っているし、次こそ無事に帰ってこられる保証はない。
 そうなれば、リトの面倒を誰が代わりに見てくれるのか。そんな心配を抱えたまま、勅命に応じられるはずもなかった。そもそも、もう何百年と忘れて放置していた存在に今更頼ろうというのも虫のいい話であろう。

「俺のこと、大事って言ってくれるの嬉しい。けど……」
「けど?」
「ただ心配なだけで言われるのは、あんまり嬉しくない……」
「……」

 リトの核心をつく言葉に、オウカは内心ドキッとした。
 時代が時代なら、そろそろ元服してもおかしくはない。平和な時代ならともかく、この荒廃した時代にあれば、ひとりの人間として自立するのは自然と早まるのだろう。
 オウカはむしろ自分がリトと離れたくない言い訳を探していることを言い当てられたようで、何ともバツが悪かった。

「俺さ、オウちゃんが守ってくれた父ちゃんと母ちゃんの店をこれからもずっと守っていきたい。だから、日本が沈没したら困るっていうか……」
「そうだよな……」

 オウカは物への執着が薄かった。ひとところに留まり続ければ、不老不死のオウカは化け物だと周囲から不審な目を向けられてしまう。そのため、根無し草のような生活をずっと送ってきたことも一因となっているだろう。
 しかし、リトは生まれてからずっとこの家で過ごしてきた。亡くなった両親の写真、父親が使っていた底のコゲついた調理器具、母が磨き続けて生まれた艶のある木のテーブル。今ふたりが使っている布団も、オウカが来る前から家族が使っていたものだ。
 それらはすべて、リトを構成している一部だった。簡単に投げ捨てて逃げられるようなものは、ここに何一つない。その感覚を、オウカはリトに言われるまで忘れていた。

「オウちゃんなら大津波になんて負けないよ」
「老体に鞭打とうって?」
「オウちゃんにしかできないことって、なんかかっこいいと思う」
「かっこいい、か……」
「それでパパーッて日本を救ってさ、また一緒に定食屋やろう?」
「それは、すごくいいなぁ……」

 オウカの返事を聞いて、リトは嬉しそうに小指を立てて差し出す。

「じゃあ、約束!」

 その指にオウカは自身の小指を絡めた。

「ゆびきりげ~んまん、嘘ついたら……♪」

 まだ小さく柔らかなリトの指に、オウカはやはり心配を拭えない。

「……指切った!」

 しかし、元気に歌い切ったリトは容赦なくオウカの手の中から指を抜き取った。成すべきことを成してこい、と言わんばかりに。
 それは恐らく、リトがオウカを送りだすための覚悟だった。
 だとしたら、彼の何百倍も生きているオウカが覚悟を決めないわけにはいかない。覚悟を決めた人間に、生き恥を晒す無様だけは見せたくなかった。

 リトが眠りについた頃。オウカは店の扉を開き、そこでずっと待っていた加茂野を招き入れた。
 改めて突き出された勅命の記された封筒を受け取ったオウカに、加茂野はパチパチと目を瞬かせる。ずっと外で身体も冷えただろう、とオウカが茶を出せば彼は余計に混乱しながらちょこんと椅子に腰を下ろした。
 そんな加茂野とテーブルを挟んで、自分用の茶に口をつけながらオウカが尋ねる。

「どうしてあんたは俺のことを信じられたんだ?」

 不老不死を非科学的だと言い切った彼だ。怪異や神話などをそう簡単に信じるような人間ではないだろう。昔の記録を見たとは言ったが、弟だって科学者だったというのなら、もっと科学的な解決方法を探す方が彼らの目には懸命に映ったのではないだろうか。
 だが事実は、わざわざオウカを探してこんな片田舎までやってきた。
 それくらいの話は聞いてみたいという好奇心から、オウカは加茂野に茶を出したのだった。店内に招き入れられた事情を何となく察した加茂野は、差し出された茶で唇を湿らせる。

「私たち兄弟は幼い頃、被災しました」

 そんな切り出しに、オウカはカタカタの記憶の引き出しが揺れる音を聞いた気がした。

「あの地震が来た時は、両親は共働きで家にいなくて私と弟のふたりだけでした。弟の手を引いてとにかく屋外に逃げたものの、どうすればいいかも分からず死の恐怖に震えていた時に……あなたが助けてくれたんです」

 ひび割れたアスファルトの道を、よろよろと歩く幼い兄弟の姿が薄っすらとオウカの脳裏に蘇る。弟を守ろうと辺りを必死に睨む兄の鋭い眼光は、今の彼と変わらなかった。
 そうか、あの後も無事だったのか。と言いかけて、

「覚えてないなぁ」

 とだけ呟き、茶を流し込む。自分から思い出せなかったのに、後だしのように恩を着せるような言葉をかけるのは憚られた。
 記憶を再び引き出しへ収めていると、加茂野はじっとオウカを見つめる。

「やっぱり、あの時と変わらない。伝説は真実なんだ、とより確信を持てます」
「言っておくが俺は万能じゃない。それと、勅命を受けるには条件がある」
「条件……?」

 オウカは湯飲みをテーブルに置き、加茂野の前に立つ。
 何をされるのかと身構えた加茂野に向かって、オウカは勢いよく身体を直角に曲げた。勢いよく頭を下げてきたオウカに、加茂野は面食らったように手の中の茶を揺らす。

「もしもの時はリトが……弟が、成人するまでの面倒を頼みたい」

 その申し出に加茂野は湯飲みをテーブルに置く。そして、頭を突き合わせるように対面から礼をした。

「……分かりました。確かにお引き受けいたします」

 そして翌日。オウカは舞草桜火として、加茂野空良と上京することになった。
 今では鉄道よりも車での移動の方が確実だったため、加茂野が用意した車にオウカは乗り込む。

「じゃあ、行ってくるな」
「うん。お土産買ってきてね」
「観光じゃないって」

 笑いつつ、全開になった窓越しにリトと雑談を交わす。
 運転席でシートベルトを締めた加茂野は、ちらっとオウカを振り返った。

「では、そろそろ出発します」
「あぁ。リト、ちゃんと寝る前には歯磨けよ」

 加茂野がエンジンをかけるのを見ていたオウカは、いつまでも返事のないリトを振り返る。

「こらこら、料理人が虫歯なんて大変なことに……」

 そこでオウカは言葉を詰まらせた。
 無言でオウカを見つめるリトの瞳からは、ぼろぼろと大粒の涙が溢れだしていたのだ。
 驚きで目を見開いたオウカは、きゅっと喉が締まっていくのを感じた。
嗚咽が漏れないように歯を噛みしめていたリトは、何度も首を縦に振る。

「歯、磨く……だいじょ、ぶ……!」
「リト……」
「大丈夫……俺、オウちゃんいなくても朝起きられるようになったし、強盗だって追い返せるし、大丈夫っ! けど……なっ、泣くつもりなんて、なかったのになぁ!」

 何度も呟かれる大丈夫は、リトが自分に言い聞かせているようだった。暗く見せないよう声を張り上げるほど、引き攣ったリトの喉からは裏返った声が漏れる。
 客観的に見れば、リトはきっともう独りでもやっていけるだろう。だからオウカは、リトの覚悟に後押しされて加茂野と上京することを選んだ。
 だがそれが、別れを惜しまない理由にはならない。

「リト」
「!」

 オウカは窓から両腕を伸ばし、リトの首を引き寄せるようにして抱いた。泣いたせいで熱くなった背は、どうしようもなく初めて彼を抱き上げた時のことをオウカに思い出させる。
 オウカは鼻の奥がツンと染みるのを感じて、震えそうになる喉を叱咤した。

「お前なら大丈夫って俺も知ってる。待っててくれ、一緒に定食屋やろうな」
「……! 待ってるよ、ここで絶対……」

 そう呟いたリトの頬に、それ以上涙が伝うことはなかった。昨日よりもまた少し、彼の顔が大人びた気がしてオウカは切なく眉尻を下げる。

 そして、車は走り出す。後ろにリトを残して。
 オウカはリトが見えなくなっても、しばらくその方向から視線を逸らせなかった。




 山と海に挟まれた日本の田舎町に、海外からも人が訪れるという人気の定食屋がある。
 厨房担当の店主と片腕のないホール担当の男がふたりで営むその店には、不思議な噂があった。なんでもホール担当の男は、不老不死なんだとか。

「──……って聞いたんですけど」
「店の美味い飯で元気になってるおかげだろうな。さすがに腕は再生できないが」

 そう言って笑いながら、男は肩口で丸めるように縛った袖を見せる。

「あの、その腕って……」
「あぁ、海にくれてやったんだ」
「海……?」
「オウカ、次の料理できたぞ!」

 客と雑談していたオウカは、厨房に呼ばれて飛んでいく。
 カウンターに置かれた料理から漂う香りに、彼はぱっと顔を綻ばせた。

「んー、さすがリト。今回の新作もいい出来だ」
「分かったから、冷めないうちに運んでくれよ」
「はいはい」

 リトは皺の入った手でしっしと払うような素振りをし、オウカをホールへと送り出す。
 片腕で器用に皿を運ぶオウカを眺めたリトは、満足そうに次の調理に取り掛かるのだった。



柳田知雪 他作品はこちらから↓
「負け犬ギルドの幼馴染」 ※こちらは成人指定小説です
「たい焼き屋のベテランバイトは神様です」シリーズ 完結済
「明日、誰かに言いたくなる食べ物の話」シリーズ 完結済

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