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【小説】藤宮ニア『雨後に願う』

 あ、まただ。
 すれ違うエスカレーターの人々を眺めながら思う。最近、知らない人の顔にやたらと父親の影を見てしまうことが増えた。
 父はもうすぐ70歳になる。70。数字のインパクトを改めて噛み締めながら、今は67だったか、8だったか、とぼんやり考えた。エスカレーターの終わりが見える。仕事終わりの時間に差し掛かる駅構内は、ビジネスマンらしき人やそれ以外でごった返していた。長いスカートの裾を巻き込まないように、広がる人混みにスムーズに紛れ込めるよう、一歩を踏み出す。

『今度、高知に行ってきます』
 いまだにLINEが使えない父からの連絡は、いつもショートメッセージだ。アプリを入れたほうがいいと何度も言う母にも従わず、「そんなの要らん」と言い続けているらしい。父以外から届くショートメッセージなんて携帯キャリアからのお知らせメールくらいのものなので、私のスマホの受信ボックスにはいつもその二つのアドレスが並んでいた。
 突然届く近況のメッセージは、少ない頻度ならではのインパクトを醸す。メンヘラ彼女並みに頻繁にLINEを送ってくる母親と違い、これには一通の重みというやつがまだ残っているのだろう。
『台風が来ているらしいので、気をつけて行ってきてください』
 何と返そうかしばらく迷って返信しても、LINEのようにぽんぽんと返事は返ってこない。こういうのは大抵次の日に、『無事に新幹線に乗れました』といったメッセージがぽろりと届いている。敬語でのメッセージは、父母共に。私と両親は、なんというか、「親子」としてのお互いの距離感がわからなくなってしまって久しい。

 定年退職後の父は、持病の治療を続けながらのんびりと暮らしている。働いている間も趣味で続けていた懸賞応募は、最近QRコードやWEBから応募といった形が多くなってしまってなかなか手が出ないらしい。思春期に父親をわかりやすく拒絶する娘は多いと聞くけれど、私の場合は、もっと複雑だった。憎悪と、憐憫と、愛おしさのようなもの。それらを抱えて、私は父と生きてきた。

「ねぇ、生きていて何が楽しいの」
 いつか、駅前で買い物をした帰り道。高校生だった頃の私は、スーパーの袋を提げて二人で歩きながらそんなことを聞いた。「えぇ?」と驚いたような声を出した後、「また大層なこと聞くなぁ」と笑う父のことを、あまりに呑気すぎると苛立ちながら眺めていたように思う。
「だってお父さん、毎日朝から働いて、疲れて帰ってきても家は荒れてるし」
 この頃、母はほとんど家におらず、洗面所もキッチンもお風呂場も、ギリギリ生活可能なレベルを保っている程度の状態で、私たちは暮らしていた。埃だらけのフローリング。汚れたままのカーペット。賞味期限切れの食材や腐った野菜が残った冷蔵庫。お父さんが買ってくるスーパーやコンビニのご飯を食べて寝るだけの暮らし。誰も、家の中にある「生活」の部分に触れようとしていなかった。お父さんはかろうじてゴミ出しをしたけれど、元々家事ができるタイプの人間でもないし、帰りも遅い。私も最後の便のバスで帰って、寝る直前にお父さんに会うか会わないかというくらいの生活だった。
「お母さんのヒステリーにも付き合わされてさ」
 かわいそう。その言葉は口に出さないけれど、苛立ちはわかりやすく声にこめていたと思う。
「なんであんな人と結婚したの」
 意味わかんない。言いながら、制服のシャツの袖汚れに目がいく。いくら石鹸で擦って洗っても、シャツを真っ白にすることはできないでいた。
「……うーん、なんでかなぁ」
 坂道の途中の信号。ここを曲がれば枯れた川の横を通るし、真っ直ぐ行けば昔は賑わっていた大型書店の前を通る。立ち止まるついでにスーパーの袋を足元に置く。そんなに重い訳ではなかったけれど、この頃の私は全てがやたらと疲れるように感じていた。
 信号の向こう側で、ファミレスに家族が吸い込まれていく。真夏を過ぎた夕刻のアスファルトからは、もう太陽の匂いはしない。
「あぁ見えて悪いところばかりじゃないよ、お母さんは」
 適当なことを言う、と思う。鼻で笑って、「そうかな」と返す。
「あの人はお父さんが選んだ家族でしょ。だったらしっかり面倒見てよ」
 私の口ぶりに、お父さんが苦笑をこぼす。こんなことを実の娘に言われるって、一体どんな気持ちなんだろう。私だってそれが想像できないほど馬鹿じゃない。もっととんでもない馬鹿だったら良かったと思うくらいには、それなりに利口な子どもに育ってしまっていた。
「里穂は嫌いか、お母さんのこと」
 嫌いに決まってるじゃん。そう答える前に信号が青に変わる。スーパーの袋にもう一度手首を通して歩き始めると、「だる」と半ば無意識に声が出そうになった。母のことを、何か考えて言葉にするということそのものが、もう面倒臭くて辛い行為だった。彼女に当てはまる言葉を探すことでさえ、なんだかどっと疲れてしまう。
「嫌いっていうか……ムカつくし、うざい。言ってること無茶苦茶だし、急にキレて人の話聞かないし、全部決めつけて否定してくるし。意味わかんないし関わんないでほしい」
「そうかぁ」
「いないならいないでいいのに中途半端に絡んでくるしさ。電話とかかけてきて今更中途半端に母親やってこようとするのが一番だるい」
「うん」
「この前電話無視したら何件かけてきてたと思う? マジでメンヘラ。いまだにすぐ部活辞めろとか言うし、話もできない」
 ヒステリーを起こす時のお母さんは普通じゃない。そんなことを感じながらも、もうそれ以上を口に出すことはしたくなかった。できることなら自分の人生からあの人との関わりを抹消して、その上でお父さんにはマシな人生を送って欲しい。願うことなんてそれくらいで、けれどそれは叶うことはないと知っているから、何も言わない。お父さんが小さく息を吐いた。あまり喋らないまま二人で歩く。枯れた川には雑草がぼうぼうと生えていて、あそこに死体があったって誰も気づかないんじゃないかと、そんなことを思った。

 お父さんは何が楽しいの。何が幸せで、何を考えていて、何を思ってあの人と一緒に生きてきたの。それらの問いに、お父さんが何かを答えることは結局なかった。大学生になって社会人になって、一人で暮らせる空間を手に入れた私はいつの間にか自分で自分を幸せにできるようになっていた。お母さんからのしつこいメールも電話も無視し続けるメンタルも手に入れて、あの頃の言葉の通り、お母さんの面倒はお父さんに預けるということを貫いた。メンヘラメールが届くこともあったけれど、その度にお父さんにどうにかするように伝える。たまに電話に出たとしても、心が曇る気配があればすぐに切る。そんな生活が続いて、お母さんも少しずつ、感情や言動をコントロールする努力をするようになったらしい。私が家を出てからは、家にも帰るようになって、いつの間にかまたお父さんと二人で暮らしている。

 数年ぶりにまともに実家に帰ったのは、婚約者を紹介するためだった。家が汚いから外でいいと電話で伝えた私に、お母さんは小さく「片付けるけど」と言って、その後半年と少しをかけて、本当に家を片付けた。十五年ぶりに床が見えるようになった家は、私の記憶にある実家とはまるで違う場所だった。
「すごい。本当に片付けたの」
「すっきりしたでしょ。もう少しやらないといけないところもあるけどね」
 人が暮らす場としての姿を取り戻した家は、纏う空気さえ違って見える。お父さんは相変わらず定位置のソファに座ってテレビを見ているけれど、そんな姿さえ、見慣れているものとは違って見えた。
「これで里穂ちゃんも結城さんもいつでも泊まれるから。お父さんのお母さんに泊まってもらうこともできるしね」
 お茶でも淹れようか、とお母さんが席を立つ。一体何が起こっているんだろうと思いながらも、なんとなく、もしかすると最後の親孝行をしたのかもしれない、と思った。「お茶よりコーヒーがいいな」とキッチンに向けて言うお父さんは、「自分でやったら」とお母さんに嗜められながらも、なんとなく嬉しそうに笑っている。
 もう決して若くはないし、きっとそのうちどちらかが入院したりもするのだろう。けれど多分、二人はこのまま最後まで夫婦をやって、夫婦のままで死んでいく。あの時の質問への父の答えはきっと、そういう日々を続けていくというだけのことなのだろうとこの時思った。それを目指して、辛抱強く、父はあの日々を過ごし続けていたのかもしれない。

『秋にもお母さんとバスツアーで温泉にいきます』
 近況報告のメッセージに、父一人の趣味の話はあまり出てこない。ボケる前に何か始めた方がいいといつも伝えているけれど、今はまだ集中できる何かが見つかっていないらしい。
 今更フランクに会話ができる関係にはなれないかもしれないけれど、それでも私は、不器用な敬語で送られてくる父のメッセージが妙に嬉しい。
『いいじゃん。気をつけて』
 少し口調を崩して返すのは、なんだかくすぐったいような心地悪さもあるけれど。私の知らない両親の時間が、彼らの人生を豊かにしていればいいと思う。

「あ、里穂? ごめん今会社出たんだけどさ」
 スマホ越しに聞こえる雑踏と、夫になった人の声。改札を抜けた後も広がる人混みは、都会特有のそれだなぁと思いながら人の間をすり抜ける。
「私今駅に着いたから、いいよ。待っとく。お花屋さん見たかったし」
「オッケー。花屋ってどこの?」
「南改札出たところかな。お店そっちの方だよね?」
「あぁ、うん。んじゃダッシュで行くんで」
「はーい」
 夜に差し掛かる風が吹き抜ける。台風が近づいているのか、少し湿った匂いが混じる。
 あの枯れた川にも雨が降ったなら、もう一度水を溜めることもあるのかもしれない。雲の多い空を見上げながら、なんとなく、そんなことを考えていた。

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