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柳田知雪『明日、誰かに言いたくなるような食べ物の話 ~ぶどう~ 』

隆宏はうだるような熱さの中を歩いていた。
行く先が陽炎に揺らいで見える。
こめかみに垂れる汗を拭けば、場所が悪く腕時計が擦れて痛かった。
クールビズとは言うものの、これだけ暑ければシャツは汗で張り付いて不快だし、ネクタイひとつでそう体感温度は変わらない。

目的地までの距離を頭の中で計算しつつ、隆宏は手の中にある段ボール箱へと視線を落とした。
岡山県産という文字の横に描かれた、ぶどうの絵。
絵の通り、箱の中にはパンパンに張った実の連なるぶどうも入っているのだが、今年はなんとマスカットまで、箱の大きさにそぐわずぎゅうぎゅうに 詰められていた。
実家から送ってくれた親が、1つの箱に済ますために配慮してくれた結果だった。

熱風とも言える風に乗って、胸元からむわっと熟成したワインに近い匂いを感じる。
まさかこの暑さに、段ボールの中で発酵 が始まっているのではないかと心配になり、隆宏はまた歩幅を大きくした。

目的の玄関の前までやってきて、隆宏は合鍵を出そうとして止めた。
せっかくだから家主の彼女に扉を開けてもらおうと、甘えてみようかと思ったのだ。

肘でカメラ付きのインターホンのボタンを押し込めば、中から足音がする。
そして玄関を開けた彼女、葵は笑顔で言うのだ。

「また、この季節が来たね」

と、ぶどうの箱を指差して。
『また』というのは4年前の夏を思い出すから。
そして今年も、隆宏はあの年の夏を思い出す。


* * *


立川葵と水瀬隆宏は大学の同級生だった。
食いしん坊という点で共通の話題もあり、気付けば2人で美味しいものを求めて知らない街へと足を伸ばす、というのがまだデート未満のお決まりのお出かけだった。
LIMEで作ったグループチャットは、2人しかいないのに『食いしん坊同盟』 なんて名前までついている。

一番最初に葵とご飯を食べに行った時だった。
その時も、隆宏は自身のウンチク欲を惜しげもなく披露していた。

「美味しい」と言うことはダイエットにも繋がる。
声に出すことで満足度が上がり、無駄食いも減り、必要な分だけ食べられるのだ。
心理学的に言えば、話をよりポジティブに導くなど、とにかく良いことづくし。

それを聞いた葵が、

「じゃあ、約束ね。美味しいものを食べたら、一緒に美味しいって言う! どう?」
「確かに、楽しい食生活を送るにはいい約束かも?」
「でしょ。ではここに『食いしん坊同盟』の結成を宣言します!」

よって、2人は同盟を結んだ。
少しだけ特別な、他の友達とは違う関係を示す名前。

しかし、関係はそれ以上になかなか進まなかった。
どちらもそれとなく、一緒にいる時間を心地良く思っていたし、それが続けばいいな、とも思っていた。

「自分たちって、付き合ってるよね?」

と聞く勇気が隆宏にはなかった。
周りから見ればカップル同然だったため、ついには仲の良い学食のおばちゃんに、

「あれ、今日は彼女と一緒じゃないの?」

なんて、聞かれる始末だ。

隆宏本人も、告白すればほぼ99%大丈夫だろう、という自覚はあった。
ただほんの1%、フられたらどうしよう、という不安が拭えない。
いっそこのままの関係でもいいんじゃないか、そもそも彼女いない歴=年齢の隆宏に付き合っても今の関係が変わるビジョンも思い浮かばなかった。
それなら、わざわざ互いの気持ちを確かめることなんて必要だろうか?

そんな臆病風に吹かれ、今日も葵と次に行く店を探すためにネットを漁る。
その時、隆宏のスマホ画面は電話の着信画面へと切り替わった。
表示された名前は『母』だ。
1人暮らしを始めて以降、何かあったわけではないが親とは疎遠になった。
友人の中には週に1度は連絡を取っている、なんてのもいるが、隆宏は全くだ。
今まさに、無視を決め込もうとスマホから視線を放しかけたその時。

「……あ」

脳裏にぶどうの影が過り、鼻孔に噎せ返るような甘い香りが蘇る。
隆宏は短い声を上げ、胃がきゅうっと 縮こまって慌てて電話を取った。

「もしもし、母さん!?」
『あ、やっと出た。一昨日も連絡したのに、返事くれないから心配したのよ?』
「ごめんごめん、それで何? どうしたの?」

自分の口から出る言葉が白々しい、とは分かりつつ隆宏は冷静を装って尋ねた。

『今年もぶどう送るからね。冷凍すれば長持ちして1人でも食べきれずに傷ませることもないし、美味しいから』

予想通りの言葉に、隆宏の胃がさらにぎゅっと引き絞られる。
口の中に染み出る唾液がぶどうの甘い汁の味に変わっていく錯覚を覚えた。

「いや、いいよ! 食べきれないと困るし、友達と外食することの方が多いから……」
『でも、もう送っちゃったわよ?』
「は?」
『一昨日電話した時に何房いる? って聞こうと思ったけど、出ないから。とりあえず去年と同じで2房送っといたからね。今日の夕方には届くわよ』

心の中で、一昨日の自分に罵詈雑言を浴びせる。
特に手ごたえもない言葉は胸に蓄積され、あとは何を喋ったか分からないまま母親との電話は途切れた。

「どうしよっかなぁ……」

ベッドに倒れ込みながら、隆宏は盛大に溜息を吐いた。
隆宏の実家はぶどう農家だ。
そして、隆宏はぶどうが苦手だった。

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