見出し画像

小野寺ひかり『眠いけど食べたい』

小野寺ひかりの文芸誌Sugomoriへの寄稿作品はこちら。『眠いけど食べたい』★月間PV1位『言えない肝心なこと【全編無料】課題図書レビュー②『小野寺ひかり スケッチー』  2020年8月号編集長
文芸誌Sugomori 公式サイトhttps://peraichi.com/landing_pages/view/sugomori

 23時に私は油を張ったフライパンの前にいた。もう後戻りは出来ない。片付けなんて気にしない。今日じゃない明日か明後日の私がやってくれるはず。点火する。次第にじゅくじゅくと、油の気泡が沸き上がる。 
 夜の上り坂で自転車を押していた。劇場からの帰り道はいつも23時を過ぎる。舞台にたって騒ぎまくって、2時間で500円。アルバイトに出れば2200円だ。だめだ、勘定してはいけない。いまは下積みだから。養成所に入所してすでに3年。先輩も何べんも説いてくるし、自分にも何べんと言い聞かせている。

 カラカラカラ――
 何もしなくてもいい。夜になれば自動で蛍光白色が灯されていた。どんなセンサーが働いているのか、私は知らないのだが上京して手に入れた自転車のLEDライトを見るたびに、不気味な音がする実家の自転車を思い出してしまう。足でひっかけてライトをオンにすると、とたんにペダルが重くなったのだ。あの時はこういうものだと言い聞かせて乗っていた。あの自転車はどこに行ってしまったっけ。
 すこしの間、郷愁に浸っていたら、前を歩く人のお尻が白く光っていることに気が付いた。まるで蛍じゃないか。風流だ、いや、実際はおじさんのお尻が照らされているだけだから、ロマンスをひとつも感じないけれど。いつもの夜は誰もいないから、なんだか余計に面白がってしまう。右尻、左尻、今度は臀部の中央にスポットライトを浴びせる。前を歩く中年男性の光る尻を見つめていた。さささ、と尻が急な動きに変わった。あ、と思った。どうやら距離を詰めすぎてしまったようだ。スマホでも見るフリをして、暗がりにすこし立ち止まることにした。さっさと坂の上に登ってもらい、中年男性の警戒をといてもらうべきだろう。先ほど横目にいた「痴漢に注意」の看板は別に女性に向けたものだけじゃないだろうし。少なくとも女芸人のためのものじゃない。
 最後の急こう配で、いつも息切れてしまう。ふう、と坂を登り終えると中年男性の姿は消えていた。サドルに腰掛けて、ペダルを踏みなおす。行きは下り坂だから15分で駅に行けるが、帰りは疲労困ぱいだ。いやいや坂の上にあるおかげで、都心のワンルームに住めたわけだし、文句はいうまい。歯医者を曲がれば夜道に嬉しい24時間スーパーだってある。
 がしゃん、と自転車を停めて自動ドアをくぐれば陽気な音楽が流れてくる。0時を回っているのにレジには70歳を越えただろう腰の曲がったおじいさんが頑張っている。さすが東京だ。彼のレジ打ちをみるだけで、どんな人生も悪くないと思える。ここまでくればもう私のテリトリーだと安心できる。
 「不特定多数にモテたいと思うんだけどどう思う?」
 「鏡見てから言ったらどう?」
 「質問してるのになんで提案で返してくるの? あなたのそういうとこいけないと思うけどどう思う?」
「こいつメンドクセー! モテる気ゼロだよー!」
 声を張れば張るほど、観客がひいていく。渾身の舞台は散々だった。思い出すだけで身震いしてしまう。わかっているのに、記憶の自動再生が止められない。ため息が出た。夜中に思いついたときは大爆笑だったのに。
 パック詰めされたかき揚げに「16時に作りました」シールが貼ってある。私には夜中に作りましたシールを貼っておくべきだった、生産者の顏も乗せて、その上から10%値引きのシールでもつければ誰か手に取ってくれるだろうか。
 すこしへたれた、かき揚げは割烹姿のおばちゃんたちに作られた。同じくらいの背格好の量産型割烹着おばちゃんに。巨大な鍋で一斉に揚げ物する。スベらないレシピを豪快に披露し、わははと笑う。想像すると少し楽しくなってくる。時にはファンタジー映画さながら、魔女の呪文を唱えると大小の野菜が自ら衣をまとい、高熱の油にダイブしていく! 白い割烹着とビニール手袋をしたおばちゃんたちが「熱い」と言いながら、パック包装に仕立ててはしゃぐのだ。
 空腹と疲労がピークに達していた。ごくり、唾をのみこんだ。かき揚げくらい簡単な笑いなら私にだって生み出せるはずだ。作る? この時間に家でかき揚げをこれから? 頭の中がグルグルと回ったが私の舌と胃はもうかき揚げに支配されていた。
 「多佳子ももう27歳だっけか。売れ残ったなあ、いい人はいないのか?」
 正月の父の発言が蘇ってきた。おかしいな、市場に卸した覚えがない。お父さん、私はいつ出荷されたの。ドナドナされた子牛はよっぽど幸せだったのか。人生の手ごたえはどこにも感じない。
 新鮮な野菜をスーパーの袋ぱんぱんに買ってきた。どちらにせよ、おかしくなってくる。0時過ぎに揚げ物を作る芸人なのだ。まずは手洗いをして、泥付きの新ごぼうといっしょに泡を水で流す。全部洗う必要はない。20cmだけ切ってささがきにして水にさらす。シャワーを浴びた。大胆かつ繊細に体と髪を洗い15分、髪を乾かしながらスマホでかき揚げのレシピを取得。
 部屋着になったところで睡魔と食欲とどちらもが襲ってくる。包丁を握った。刃に写った自分の目がぎらついているような気がする。にんじん、ミツバ、新玉ねぎ。順に包丁をおろしていく。溶き卵と小麦粉と冷水と塩を混ぜた衣。間違いないレシピ情報によると混ぜ過ぎないのがポイントらしい。具材とまぜて最後に打ち粉を少々。深めのフライパンに油を張っていると、サラダ油の残りがわずかだったので胡麻油を半々で使うことにした。油の温度を確かめ衣を一滴垂らす。

——じゅわ

 いったん沈みすぐに上がってくる。よし適温だ、おたまにすくってタネを油へゆっくりおろしていく。ぷかりと大風呂に浮いた様子をみて自然と笑いがこみ上げた。さすが正解のレシピだ。大皿に、キッチンタオル。いつでも準備万端だ。かき揚げをひっくり返してから、真ん中に少し箸で穴を作った。火を通しやすくする、と書いてあった。 油から上げたかき揚げの衣は美しく仕上がった。おばちゃんたちには味わえないはずだ。作りたてだからカラカラと軽妙で実に美しい。さくり、噛むたびにじゅわり味が広がる。ああ、美味しい。にんじんの赤、ミツバの緑、ゴボウと玉ねぎは白茶になっている。
 完璧をなんども作り食べ続けた。完璧を。すっかりお腹も満腹になると睡魔だけが残った。今日はもう大丈夫だと思えた。だから口の中が油っぽいけどそのまま眠ることにした。
 眠る直前になって、なぜかレジ打ちのおじいさんに「いつもご苦労さんです」と言われたことを思い出した。来月からレジ袋が有料になることに気を取られて「どうも」と必要以上に頭を下げたことを思い出す。「いつも」という言葉が反復しはじめた。いつも、いつも、どうも、どうも。毎晩、毎晩、薄明るい東京の夜道を歩く。小さなスポットライトで照らされた坂道を登っていく。
 あ、今、夢を見はじめた。

END

小野寺ひかり Twitter:@OnoderaHikari

ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?