オタクよ増えよ 地上にあまねく満ちよ!

最近ずっとモヤモヤしていたことが言語化できた。それが「オタクよもっと仲間を増やせ」だ。

夏前から、政治に深く宗教団体が関わっていたという事実が話題になった。「なにか事を成すのに、信仰を持った人にはかなわない」これは揺るぎない事実だろう。

強い信仰を持っている人々がさらに仲間を増やし、そのなかで優秀な者は企業なり国なりに入っていき、自分たちの国を目指す…このストーリーは、はっきりいって、うらやましい。なにより熱い。

かなわんのはわかった。しかし、手持ちのもので、それに抗えるとしたらなんだろう?人として、たよりない個人として。

「それは、オタクだろう」。そのように思い至った。

いつか見たインタビューで何処かの国の子が「世界中の人とポケモンでバトルしたいから、夢は世界平和」と語った時、目からウロコが落ちたあの感動を、思い出した。

(なお、オタクはこのように定義する「その分野のナンバーワンとかではない。語り出すと早口になっちゃう感じの人」。つまり愛。)

オタク、それはエッセンシャルな人生の喜びを知る者だ。ポケモンの少年と同じように、「僕の大好きなもので世界が溢れたらいい」と思ったはずだ。その原点に戻るのだ。

とくにいまは…たとえば政治、行政、国際、教育、金融、文化、歴史、軍事、そのへんのオタクの頑張りを期待したい。評論や批判ではなく、仲間を増やせ!国をどうこうしようというくらいの、壮大な視点が必要だ。

僕も怠けていたのだ。自分を構築するオタク性を振り返る…絵を描く、飲食店、イベント、着ぐるみ、キャラクター、商店街、オートバイ、猫、のようなもの…だって同じだ。幸運にも屋根のある家で飯を食って暮らし、これらに取り組んでこれた。その喜びを世界にシェアすべきなのだ。それが人生の仕事だ。

実践する上で肝心なのは、「熱意のないものを相手にする」ことだろう。熱意を持って近づいてくる者は、たいてい自分のオタクなり信仰なりを持っているものだ。それではマウント合戦になるし、広がりが期待できない。

議論するのはいい。議論が楽しいオタクもいる。しかし世界を変えるには「熱意のない人」を相手にしなければならない。伝え、教育し、友に学び話す相手、「話の通じる仲間」を増やすのだ。それはある意味、伝道であり、教化であろう。

ちいさな自分のサンガ(集団)を持てと、上座部仏教の偉い坊さんも言っていた。こういうのは参考にさせてもらおう。


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