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幼気【♯2】

再び父から連絡が来たので、仕方なく実家に帰る予定を組んだ。何か話があるようだし、母が麦や和樹に嫌なことを言わないかと気疲れするので、私一人で行くことにした。麦がゴネないように、前から行きたがっていた遊園地に和樹に連れて行ってもらい、私は後から合流してお泊りをする約束をした。おかげで麦はご機嫌だし、私も何か楽しみがないとその日一日を乗り越えられそうになかった。和樹は事情を理解してくれているので快く送り出してくれる。味方がひとりでもいるというのは、こんなに心強いものかと思う。

当日、二人は車で出掛けたので私は電車で実家に向かった。午前中に家を出たが着く頃には昼をまわってしまうだろう。地元に近づくにつれ、乗客も減っていく。私はただぼんやりと、すっかり秋めいた景色を見つめていた。仕事と家事育児に追われる日々だ。こんなふうにのんびりと、一人で時間を過ごすのはいつぶりだろう。窓から入る陽射しが暖かくて、うつらうつらとしながら電車の揺れに身を任せた。

私は子供は産まないと思っていた。結婚願望もなかったが、万が一縁に恵まれたとしても子供を育てる気はなかった。いや、育てるのが怖かった、と言うのが正しいだろうか。和樹にプロポーズされたときも、返事の前にその事を伝えた。中途半端な気持ちで付き合っていた訳では無いが、お互いを好きな気持ちがあっても、後々この問題にぶつかるだろう。和樹がどうしても子供が欲しいと言うなら結婚するべきでは無いと、それ程私の意思は強かった。和樹は私の意思を尊重する、と言ってくれた。無理に産む必要はないし、もし考えが変わって欲しいと思えば一緒に育てていこうと。私と母との関係も理解してくれていた。そんな彼ならと、結婚に踏み切ることが出来たのだった。

ところが麦を授かった。十分に気を付けていたし、生理不順で何となく子供は出来づらい体質だと思いこんでいた私は酷く動揺したが、産婦人科で小さな心臓が動いているのを見たとき、この命を守らなければと思った。それまで強固だった私の意思は、自分の母性の目覚めによって、いとも簡単に覆された。和樹は約束通り私の心変わりを許してくれたし、彼自身もとても喜んでいた。私の気持を尊重してくれたが、本当は子供を望んでいたのかもしれない。順調にお腹が膨らんでいく一方で、子育てへの恐怖心はどうしても拭えなかった。絶対に母の様になりたくなかった。私には母の血が流れている。何かの拍子に麦に手を上げてしまったらどうしよう、自分の感情が抑えられずに無視したり怒鳴ってしまったらどうしよう、可愛いと思えなかったらどうしよう。しかし、その想いは杞憂に終わった。生まれた瞬間から麦が可愛くて仕方なかったし、どんなに言うことを聞かない事があっても手を上げる気になんてならなかった。和樹も麦を溺愛している。和樹に麦を会わせてあげられて良かったと心から思う。

最寄り駅に着くとコンビニでサンドイッチと缶コーヒーを買ってバス停に向かった。ここから更にバスで二十分程かかる。次のバスまで十五分、待つ場所もないのでバス停のベンチで軽く腹ごしらえをする事にした。父は「うちで一緒にお昼を食べよう」と言っていたが、長居しなくて済むように断った。これは私の精神衛生の為だ。

この季節になると都会より気温が二、三度低くなる。同じ東京都なのに本当に田舎だと思い知らせる。時間通りに来ないバスにやっと乗れたと思ったら工事で渋滞していて、約束の時間を大幅に遅れてしまった。さっき飲んだコーヒーが胃に沁みて気持ち悪い。話しを聞いたらなるべく早く帰ろう。

インターホンを押す。「はい。」と出たのは母だった。大きく息を吸ってから「わたし。」と答える。ああ、着いてしまった。「おお、お帰りー。元気か?」
すぐに父が笑顔で玄関を開けてくれた。この家は今の父である浩二さんが建てたものだから、私は二年程しか住んでいない。私が出て行ったせいとはいえ、実家というには馴染みが薄い。浩二さんはブルーハーツが好きで、玄関には沢山ブルーハーツの写真が飾ってある。真っ直ぐな歌を歌う彼らの視線が、家族から逃げた自分を責めているような気がして、うしろめたい気持ちになる。母の趣味である紙粘土の人形とブルーハーツの写真で飾られた玄関が苦手で、足早に通り過ぎてリビングへ向かう。
「ただいま。うん、元気だよ。ごめんね、遅くなって。」
「昼飯は食ったのか?」
「うん、食べてきた。」
「そうかー。」

この家に“ただいま”と言うのは少し違和感があるが、これは浩二さんへのサービスだ。浩二さんは本当に優しく、良くしてくれている。本当の父のように甘えることは出来なくても、嘘でも母と仲良く出来ない私はせめて浩二さんには家族と思っているというアピールをするのは大切なことだと思っている。

「あんた、何時だと思ってんの?せっかく作ったのに冷めちゃったじゃない。」

リビングに着くとご飯が用意されていた。こちらが“ただいま”を言う隙もなくまず文句を言うと、温め直そうと母は食事をキッチンに運ぼうとしている。

「いいよ、食べないから。お昼食べて来るって言ってあったじゃん。」

久しぶりに実家に帰ったのに、用意してくれたご飯を食べない私は酷い人間に見えるだろう。そんな事は散々言人にわれてきた。でも昔からこうなのだ。子供の頃から急に「今日はご飯ないから自分で何とかして」と言われたり、友達と食べてくると言って出掛けても用意されていてなぜ食べないんだ、と怒られる。こちらの都合はお構いなしなのだ。こんな会話は日常茶飯事で、喧嘩のうちにも入らない。

「菜津子さん、真弓はあまり時間がないんだって。後で俺が食べるからそのまま置いておいてよ。真弓ももし気が向いたらつまめば良いし。」
「お茶で良いの?コーヒーにする?」
「コーヒーはさっき飲んだからお茶がいい。」
無言で母は飲み物を入れ始める。せっかく用意したご飯を拒絶されて気分を害してるのかもしれないが、案の定、にこやかに話が出来る空気ではない。私の言い方が悪い自覚はもちろんあるが、少しはこちらの都合だって汲んでほしい。

「それで、話って何?」
「あー…なんだよ、早速だな。」

浩二さんが苦笑いする。少しは雑談でもするべきだったか。早く帰りたい気持ちが出すぎてしまったと反省する。父にはなるべく、嫌な思いをさせたくない。

「どれ位ぶりだ?」
「去年の春休みに来てるからもうすぐ2年かな。」
「そうだそうだ、麦ちゃんの小学校の入学祝いをしたんだったなぁ。麦ちゃん、小学校どうだ。」
「うん、楽しそうにやってるよ。」

浩二さんは母より随分年下で、確か来年定年を迎えるはずだ。その後どうやって暮らして行くのか気になるが、長くなると困るのでその話はまた電話で聞こう。

「はい。お砂糖とミルクは?」

母がマグカップを私の前に置いて聞いてくる。コーヒーじゃなくてお茶だと言ったじゃないか、と思ってカップの中を見たがコーヒーにしては色が薄い。

「菜津子さん、紅茶にしたのか。そういえば山中さんに頂いた旨いやつがあったんだよなぁ、それか。」

いい香りが鼻に届く前に、すかさず浩二さんがフォローを入れてくる。“お茶”と言われ紅茶が出てくるとは思わなかった。緑茶とかほうじ茶のつもりで私は頼んだのだが、こういうことにいちいち突っかかっていてはこちらの身が持たない。

「このままでいいや。いただきます。」

頭に浮かんだ言葉をぐっと飲み込んで、出された紅茶を一口啜る。鼻の奥に香りが広がり、冷えた身体がじんわりと温まる。確かに美味しい。子供を産んでからというもの、家で紅茶を入れて飲む暇などなかった。不意打ちの紅茶に、さっきまで強張っていた心も少し解けたようだ。

「美味しいでしょう。牛乳で煮出してロイヤルミルクティーにしても美味しいから、明日の朝やってあげるわ。」
「いや、泊まらないよ?今日もすぐ帰るんだから。」
「チョコ食べる?まゆちゃんはお煎餅の方がいいか。」

まゆちゃん。確かに子供の頃はそう呼ばれていたがもうずっと“真弓”と呼んでいるのにどうしたんだろう。美味しい紅茶を振る舞えた事で気をよくしたのだろうか。さっきまでのしかめっ面は消えて上機嫌にお菓子を見繕っている。相変わらず掴めない人だ。浩二さんはこのマイペースさに振り回されて疲れないのだろうか。

結局母はチョコレートもお煎餅も両方食卓に出すと、「庭の掃除の続きをしなきゃ」と居なくなってしまった。作ったご飯を食べて欲しかったのではなかったのか、と思いながらチョコレートをひと粒口にほおり込む。

はは、と浩二さんが笑って「久しぶりにお母さんに会ってどうだ?」と聞いてきた。遂に“話”が始まりそうな雰囲気にまた少し緊張が走る。

「久しぶりって程久しぶりでもないけどね。…まあ、相変わらずだね。ごめんね、仲良く会話、みたいなの出来なくて。」
「まぁそれはなぁ、仕方ないよな。二人の歴史もあるわけだし。」
「うん…。浩二さんは疲れないの?毎日お母さんの相手して。“話がある”って言うからやっぱ離婚かなーって思ったよ。」
「ははは、違うよ。菜津子さんは分からないけど俺は離婚なんて考えた事もないなぁ。べた惚れだからな。」
「あっそ。」

どこが良いのかは分からないが、こんなふうに想われている母は幸せだと思う。だからこそ、母には浩二さんを大切にしてもらいたい。勿論私も大切にしたい気持ちはあるが、実家に居るとどうしてもギスギスしてしまい、浩二さんに迷惑をかけてしまう。この夫婦は二人なら上手く行っているのに、私が入る事により不協和音が生まれるのだ。

「何か変だと思ったことはないか?」
「変だと思ったこと?お母さんが?」
「うん。」
「別に…。相変わらずマイペースでこっちの言う事聞いてくれないなって感じ。」

敢えて言うなら私を“まゆちゃん”と呼んだこと位だが、母の気まぐれかもしれないし、“母の気まぐれ”は私からしたらいつもの事だった。はっきりしない物言いに胸がざわつく。早く全て聞いてしまいたいが、もうこのまま逃げて何も知りたくない気もした。浩二さんは黙り込んでしまい、嫌な静けさの中、時計の音だけが部屋に響く。

「ていうか、庭静かだね。お母さん、庭掃除って何やってんだろ。」

沈黙に耐えかねて適当な事を口にする。

「多分寝てるんじゃないかな。薬のせいなのかなぁ、よく眠くなるみたいなんだ。」
「薬?やっぱどこか悪いの?」
「…真弓が来て、一度も麦ちゃんの事を聞いてこないなんて、不思議じゃないか?」

確かに、そう言われてみればそうだ。麦が産まれてからというもの、口を開けば「麦ちゃん麦ちゃん」だった。背筋に冷たい汗が走る。そして、私の頭を過ぎった言葉を、そのまま浩二さんが口にした。

「お母さんな…、認知症らしいんだ。」

            【♯3】へ続く


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