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幼気【♯1】

母と確執のある真弓は、結婚して一児を授かり、実家とは距離を置いていた。母の再婚相手である義理の父からの連絡に渋々帰省すると、母が認知症を患っていると告げられる。折り合いの悪い母の介護問題に直面し、悩む真弓だったが…。

ちょっと帰ってこないか、と父から連絡があったのは今年の四月のことだった。それから何とか理由をつけてここまで引っ張ってきてしまったが、もう十一月になろうとしている。そろそろ言い訳も苦しくなってきており、今帰っておけば正月に顔を出さずに済むかも、という下心も芽生えだした。

父と母の住む実家は東京都の奥の奥、他県に行くほうが近いような郊外にある。現在の私はほとんどの主要都市には三十分もあれば行ける街で、夫と娘の三人で暮らしている。いつでも帰ろうと思えば帰れるが、いざとなると腰が重い、そんな距離に住んでいた。

腰が重いのは距離だけの問題ではない。ひとりっ子の私は母との折り合いが悪かった。私に連絡をしてきた父は私の本当の父ではない。母は、私が物心つく頃に本当の父とは離婚し、高校二年生まで女手ひとつで育てられた。シングルマザー故に、しっかりしなければとの思いがあったようで、私はとにかく厳しく育てられ、過保護で過干渉ぎみでもあった。父と別れた寂しさなんかも当てられていたように思う。高齢出産で私を産んだこともあり、恐らく母の更年期と私の反抗期が重なって私の我慢が爆発してから母との関係は修復出来ずにいた。高校二年生の秋に今の父を紹介された時、抵抗感よりも“母とふたりきりでいなくて済む”安心感の方が勝り、再婚に賛成した。勿論誰でもいい訳ではなく、第一印象から“いい人”が滲み出ていてこの人なら、と思ったのは大前提だ。一緒に暮らしている間は父が私達の間を取り持ってくれていたが母の干渉はなかなか止まず、就職を期に無理やり実家を出てからは数年に一度顔を出す程度で、それが私にとって丁度いい距離感な気がしていた。

その父が「母さんのことで話がある。」と言ってきた。歳も歳だし悪い病気でも患ったのかと思い、「急ぎのことか。」と聞くと「緊急ではないが、早いほうが嬉しい。」と返ってきた。次に“離婚”の二文字が思い浮かんだので率直に聞いて見たが、そうではないらしい。まさか金か。変に騙されやすい所があったから宗教やマルチだったら嫌だなと思ったが、どれも違うという。父は「とにかく一度帰ってきてくれ。」の一点張りで、詳しくは話してくれなかった。それが更に面倒くささを助長して今日に至るのだ。

和樹と結婚したのは七年前、私が三十歳の頃だった。印刷会社で務める私と、製紙会社の営業をしていた彼とは取引先という関係だった。和樹は2歳年上で、穏やかな性格でありながら視野が広く、達観している人、という印象だった。妙に冷めているようなところもあったが、すぐに感情的になる母を持つ私には、そこが魅力的にうつった。三年の交際期間を経て結婚した。両親に結婚を急かされた事はなかったが、報告をするとそれなりに嬉しそうで、妊娠がわかった際には「初孫が産まれる。」と近所に言いふらしていたようだ。地元に愛着が無いわけではないが、こういうことがあると私から報告する前に友達から電話が来るような田舎の情報の早さが嫌だった。

妊娠中はつわりが酷く、体調を聞いてくる母にそう伝えても「吐いても食べろ、子供に何かあったらどうするんだ。」と言われるばかりだった。しかもそれが一日に何度も来る。そのくせ、つわりが悪化して入院することになったと伝えると何の連絡もよこしてこなくなったりするのだ。孫を喜んでいるのも私の身体を心配しているのも嘘ではないのだろうが、母と関わるとどうしても不快な気持ちになってしまう。

麦が産まれてからもそうだった。「紙おむつなんか使っていいのか。」「粉ミルクなんて飲ませるな、母乳にしろ。」「抱き癖がつくから泣いても抱っこするな。」
いつの時代の育児だというアドバイスをしてくるくせに、まだアレルギーを試していない食材を勝手にあげたりする。

麦にもおじいちゃんおばあちゃんに会わせてあげなければという気持ちで正月と盆くらいは実家に帰ろうと思っていたが、育休が明けて職場復帰すると、次第にまた足が遠のいてしまった。

“自分が母になって初めて親の気持ちがわかる”なんて言うが、確かじゃない育児情報を押し付けられる度に、私もこうやって育てられたのかとうんざりする一方だった。甘えたくて泣いても抱っこして貰えなかったんだなとか、母が噛んだ煎餅を口移しで貰ってたから虫歯になったのかなとか、子育ての為に勉強すればするほど、自分がされていた育児の悪い答え合わせをしているようで、心に黒い塊がずしっとのしかかる。時には家族が寝静まったあとに、こっそりリビングで泣いてしまうこともあった。

母はずっと私の心のおもりだった。虐待をされていた訳ではない。“毒親”という言葉ができた今でも、それに該当するかと言われると首を捻る。いっそ“毒親だった”と言えたら楽なのにと思うこともある。体罰がまだあった時代で、悪い事をすれば下着で玄関の外に締め出されたり、「あなたは橋の下で拾った。」なんて冗談を言えたりする世の中だった。我が家はテストは百点でなければ許されず、中学生になっても門限は十七時で、母を怒らせるとどんなに謝っても、長いと二週間も口をきいてもらえなかった。母とふたりきりの家で二週間無視されるのは、子供からしたら地獄でしかなかった。

「女手ひとつで育ててくれた母に感謝しなさい。」と人は言う。もちろん感謝はしている。高齢出産で、更に誰にも頼らず一人で育てるのはさぞかし大変だっただろう。その大変さはとても良くわかる。でも、そのストレスを子供にぶつけていいのだろうか。今だったらそれは“虐待”と呼ばれないだろうか。許せない私が悪いのだろうか。実の親を“嫌い”だなんて言えば、なぜ私のほうが叩かれるのだろうか。

小学校低学年の時に母の目を盗んで包丁を持ち出した事がある。過保護のあまり包丁なんて触らせても貰えなかったのだが、その日は包丁を握り母の背後に立った。何かしようと深く考えていた訳ではない。ただ、包丁を持って立ったのだ。こちらを見ていないはずの母がテレビに向かったまま、「殺したいなら殺しなさい。」と私に言った。急に怖くなって包丁をしまい、部屋に戻って静かに泣いた。すぐに怒る母は、その日の事は一切怒らなかった。

これでも母の機嫌が良い時は仲が良く、年に一回は必ず旅行に行っていた。母なりに私を楽しませようと色んな所に連れて行ってくれた。しかし、一つの失敗ですぐにその平和は壊れてしまう。うっかり手を滑らせお皿を割ったりしないか、何かを汚してしまったりしないかと、母との暮らしはいつも緊張が付きまとっていた。買い物に母が一人で出掛けてしまった時には、もう二度と帰って来ないのではないかと不安になり、いつも玄関に座って待っていた。楽しかった思い出も沢山あるはずなのに、母に関しては寂しさや心細い記憶ばかりだ。私の中には、あの時の包丁を握った幼い私がずっと住みついている。

            【#2】へ続くhttps://note.com/sugirlish/n/nb80edeaa0157

https://note.com/sugirlish/n/n8e19425d8d02



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