ペーパー・ムーン【♯4】
ライブが終わると高揚感に身を任せ、「トイレに行ってくる」と父さんに言い残して仲村先生を探した。今どうしているのか、元気でいるのか、それだけ聞きたかった。しかし、何万人もいる観客の中から見つけ出す事は遂に出来なかった。これがドラマなら感動的な再会とでもなるのだろうが、現実はそんなに甘くない。さっきまでの賑わいがすっかりなくなった会場の入り口でため息をついた。スマホが鳴っている事に気付き取り出すと、父さんから『先に行ってるぞ』というメッセージと共に、レストランのホームページのURLが送られてきた。
そのレストランは、会場から徒歩十五分程の距離にある雰囲気のいいイタリアンだった。
「随分エロい店だね。男二人で来るようなとこじゃなくない?」
「母さんが好きだったんだよ。結婚前に母さん、この近くに勤めてたからよく来たんだ。」
笑いながらとんでもないことを言う。何と答えれば良いか分からず、「あぁ…そう。」と濁してしまった。
「仲村先生には会えたのか?」
やっぱりバレていた。そりゃ、トイレに1時間も掛かるわけない。母さんの話題といい、食事が始まる前から色々気まずい。
「会えなかったよ。まあ、ほんとに居たかもわからないしね。思わず探しに行ったけど、実際会えても何喋って良いかわかんないし…これで良いんだよ。」
「まあ、元気でいてくれりゃあな。もし本当に来てたんだとしたら元気だって事だろ。そう思うことにしよう。」
父さんはそう言って自分を納得させるように何度も頷くと、「お前も飲むだろ?」とビール二杯と何品か料理を注文した。小さく乾杯をして、取り留めのない話しをしながら食事が進み、気付けばワインがニ本も空いていた。
イタリアでは食後酒としてグラッパというぶどうの絞りかすで出来た酒を飲むんだ、と言って僕の分も頼んでくれた。それ程酒に強くない僕は既に眠くて仕方なかったが、そのグラッパという強力な酒を一口飲み、勢いに任せて聞いてみることにした。
「何で、母さんとの思い出の店に連れてきたの?」
「…母さんもお前の就職を祝いたいだろうと思ってな。ライブの会場の近くだってのも何かの縁だろ。」
「父さんは、その…、嫌じゃないの?」
「お前からライブに誘われて会場を聞いたとき、母さんが『大切な人は皆この店に連れてきてる』って言ってたことを思い出してな。母さんが連れてこいって言ってるような気がしたんだよ。」
「そんな…死んだみたいに。」
「…。」
「…え?生きてるよね?」
するとグラッパをクイッと飲み干し、店員さんを呼んでデザートとエスプレッソを頼んだ。僕は飲み慣れないグラッパの甘い香りにまだクラクラしているというのに。
「食後酒で終わりじゃないのかよ。」
「良いじゃないか。お祝いなんだから。デザートの後にもう一度頼んだっていいんだよ?」
「いや、いいよ…。」
飲みかけのグラッパを父さんの方に押しやり、僕はデザートを待つことにした。
「そんなことより、母さんは?ていうか、まだ連絡取ったりしてるの?」
ふふ、と笑いながら僕が渡したグラッパに口をつけた。ひと息つくと、父さんは観念したように話し始めた。
「母さんが出ていった後な、まず母さんの実家に電話したんだ。実家に帰ってると考えるのが普通だし、一人でどこかにいるにしてもどっちにしろ知らせたほうがいいと思ってな。やっぱり母さんはそこにいたけど、俺には電話を繋げる事は出来ないと言われた。母さんが辛いときに力に慣れなかった俺の事がどうしても許せなかったらしい。暫くして母さんの名前が書いた離婚届が届いて、仕方なく離婚することにはなるんだが…、お前のことは気掛かりだろうと、お前の入学だの卒業だのという節目の時には写真を添えて手紙を送ってたんだ。勿論返事は来なかったが、それで良かった。電話は繋がないとは言われたが、手紙を送ってくるなとは言われなかったからな。それが…昨年末かな、差出先の書いていない手紙が届いたんだ。」
「え…」
「うん、母さんだった。」
鞄の中から封筒を取り出し、僕の前にぽんと置いた。見覚えのある字で宛名が書かれている。間違いない、母さんの字だ。
「ティラミスでございます。」
デザートとエスプレッソを両手に持った店員さんが僕の目を見たので、デザートを置く妨げになりなってしまっている手紙を思わず手に取った。
「読むか?」
「え…いいの?」
「お前宛ての手紙も入ってる。」
さっきまでの酔いが一気に冷めた。読むのは怖かったが、意を決して封を開けた。父さん宛の手紙には、離婚を勝手に決めてしまったことや今まで手紙の返事を書かなかったことへの謝罪と、僕の様子を知らせてくれたことへのお礼が丁寧に綴られていて、最後に、再婚することになったからもう手紙を送らないで欲しいと書かれていた。
元気で良かったと思う気持ち半分、なんて勝手なんだという憤りも感じずにはいられない。頭ではわかっていても、どこか心の奥にあった、いつか母さんは帰ってくるんじゃないかという期待は打ち砕かれた。どうすれば三人で幸せに暮らせたのか、もう想像することも出来ない。さっき父さんが仲村先生に対して言った、「元気でいてくれればいい」という言葉が、今になって妙に沁みてきた。
「母さん、再婚するんだ…。」
「そうみたいだなぁ。」
「良いの?」
「良いも何も、もうとっくに俺たちは離婚してる。」
「そんなに父さんが悪かったの?父さんだけが悪かったの?」
「母さんが一番大変なときにそばに居てやれなかった。お前を妊娠してつわりで苦しんでいるときも、俺はどうしたらいいかわからなくて仕事に逃げた。産後すぐに職場復帰した母さんは、度々保育園から掛かってくる電話で肩身が狭く、退職に追い込まれた。お前が小さいときの育児は全部母さんに任せっぱなしだった。お前が言葉が分かるようになってきて、なるべく母さんの負担を減らしてやろうと思ったときにはもう遅かったんだ。」
「それなら僕のせいじゃないか。」
「違う。子供は手の掛かるものだ。それを夫婦で助け合わなければいけないのに、俺はしなかった。」
「僕は父さんとの思い出のほうが多いよ。」
「それは物心ついてから俺がお前と遊ぶようになったからだ。子育ての大変な時期はそれより前なんだよ。」
「…。」
「その時の失望が、母さんの心を閉ざしてしまった。直接的な原因になったご近所からのいじめも、もう俺に相談する気になれなかったらしい。それが母さんを更に追い込んだ。俺の責任だよ。」
夫婦にしかわからないことがあるんだろうが、僕にはピンとこなかった。僕からしたらいつも一緒にいてくれたのは父さんで、距離を感じていたのは母さんの方だったのだ。今の話しを聞くと、辛い思いをしながら育てた息子が父親のほうにばかり懐いていたのも面白くなかったのだろうなとも思う。
もう一枚めくった先は僕への手紙なんだろう。読んでも読まなくても一緒な気もしたが、恐らく母さんの文字と会えるのもこれで最後だ。読まずに明日もし僕が交通事故にでも遭ったとしたら、死ぬ間際に後悔するだろう。そんな物騒な想像をして、意を決した。
“蒼へ
久しぶりです。元気ですか?いえ、あなたがどこまでお父さんから聞いてるかわからないけど、あなたの様子は私は一方的に知っていました。就職おめでとう。私にそんなこと言う資格なんてないのだけど、あなたが頑張って選んだ道を母さんは応援しています。私の弱さで、突然姿を消してごめんなさい。いくら謝っても説明しても言い訳にしかならないと思いながら、気づけばこんなに月日が経ってしまいました。信じてもらえないかもしれないけど、あなたのことは心から愛していたし、これからもそうです。あなたの人生をずっと応援してます。悔いのない人生を送ってください。あなたに会いたいけれど、それは私から求めることはできません。でももし、あなたが私に会いたいと思ってくれるときが来たら、いつでも連絡ください。最後に、身体には気を付けてね。
母さんより
090-✳✳✳✳✳✳✳✳”
「電話番号書いてあるけど…。」
「そうか。父さんの役割は終わった。これからお前の意思で、連絡したければすればいいさ。」
この手紙の感想をどう語っていいのかわからず、その場を濁すように少しぬるくなってしまったティラミスを食べた。一緒に運ばれてきたエスプレッソは思ったよりも苦くてむせていると、父さんはその様子を何故か満足気に笑って見ていた。ふと、店内のBGMが耳に入って来る。この店の店主は映画好きなのか、ずっと映画音楽が流れている。
「いいなぁ、イッツアオンリーペーパームーンか。」
「…たしか、この曲が使われた映画のタイトルもペーパー・ムーンだったよね。」
父さんのコレクションの一つだ。酔っているのか、自宅で音楽を聴くように目を瞑って、手を指揮棒のように揺らしだした。
「ハリボテの月、か。ハリボテでも幸せだった。いや、幸せだと思いたかったんだなぁ。」
そう言うと潰れてそのまま眠ってしまった。父さんのこんな姿を僕は見たことがない。祝われるはずだった僕は寒空の中父さんを抱えて何とかタクシーをつかまえた。良い店だったが、僕も父さんももうここには来ないだろう。母さんからの絶縁状のような手紙を見せながらもどこか嬉しそうだった父さんの心境は分からない。長い一日の終わり、僕も不思議と、悪くない気分だった。
次の日の夜、翔に電話をすることにした。チケットのお礼と、仕事の話の返事をしなければならない。八時過ぎなら、と事前に確認を取っておいたせいか、二回も鳴らずに電話に出た。
「翔?悪いね、忙しいところ。ウィルキンスのライブ、父さんと行ってきたからお礼しとこうと思って。父さんからも宜しく伝えとけってさ。」
「わざわざいーのに。楽しかった?俺も行きたかったー、ちくしょー。」
「はは、最高だったよ。」
翔には仲村先生の話をしたことがあったけど、見かけたことは言わなかった。必死に探したけど見つけられなかったなんて話しても仕方ないからだ。その代わり、僕の決意をきちんと話しておこうと思った。
「あのさ、前に会ったとき、翔の会社に誘ってくれたじゃん?あれなんだけど…。」
「おお、来る気になった?」
「いや、やっぱやめとくよ。」
「…そっかー。」
「正直、久しぶりにライブに行って、やっぱり音楽が好きだと思ったし、翔みたいな生き方は憧れる。僕もそうなれたらって思ったりもしたんだけど…。でもそれもまた、流されて決めたくないんだ。僕は僕の決めた道を取りあえずはやってみるよ。翔には後ろ向きに見えるかもしれないけど、今は前向きに、すごくそう思うんだ。」
母さんや先生への贖罪だったり、父さんへの憧れや恩返しというつもりで目指した道だけど、そんな言い訳をしなくても良いのだとやっと分かった気がする。僕が僕の為に教師になったっていいんだ。うまく行かなかったときの言い訳なんて用意する必要はない。
「なんとなく、蒼はそう言うかなと思ってたよ。前向きな決断ならいいんじゃない?教師をずっと楽しくやれたらそれでいいし、もし辞めたくなることがあればうちもあるし。蒼は頭硬いからさー、いつも選択肢は一つじゃないぜってことを言いたかっただけだから。」
「うん、ありがとう。あとさ。」
「まだあんのかよ。」
「ギター、練習しとくから。もし、人が足りなくなったら声掛けてよ。」
「おお、ライブやる気になった?」
嬉しそうに翔の声が弾む。
「ひ、人が足りなかったときだけな。」
「よっしゃ、後で候補曲送るわ!」
そう言うと突然電話が切れた。翔の周りにはいくらだって一緒にバンドをやる人なんて居るはずなのに、飽きもせず僕を選んでくれる事が嬉しかった。
自分のために仕事を選んでも良いし、合わなかったら辞めてもいい。辛い場所からは逃げてもいいし、教師がバンドをやったっていい。僕の周りの尊敬する人達はいつもそのことを教えてくれていた。彼らだけじゃない。仲村先生や母さんだってそう伝えていてくれたのだ。
僕は強い人間じゃないから、これからもきっと迷うし悩むだろう。でも、こんな僕だから子供たちに気付いたり教えられることがきっとあるはずだ。転ばないと気付けない小さな花が道端に咲いているように。児童たちと一緒に迷い、悩みながら僕も成長すればいいのだ。誰かに決められたのではなく、誰かのためでもなく、僕は僕のために、四月から教師になる。
ブブブ、と鳴るスマホを見ると、翔からやりたい曲のリストが送られてきていた。それは十曲程もあり、思わず笑ってしまう。
そうか、訂正しよう。四月から僕は、教師兼、バンドマンになる。
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