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「自分に合う場所」に巡り合えた思い出

「自分に合う場所」に巡り合うことは、人生で最も尊いことの一つなのではないだろうか、と私は考えている。

 それと反対に「自分に合わない場所」に身を置き続けてしまうことは、おそらく想像以上に、心身にとって危険なことであるとも考えている。

 これは、私自身が身をもってこの両方を体感したエピソードである。

「自分に合わない場所」で心身ともに壊れかけた過去

仕事が向いていない

 私は大学を卒業後、機械設計エンジニアとして働き始めた。
 入社したのは、食品工場にある製造ラインの一部に携わる企業だ。

 決して大きな会社ではなかったが、おそらく日本国内に住んでいれば誰もがスーパーマーケットやコンビニエンスストアで見たことがあるような商品の製造に携わっていた。
「自分の仕事が誰かの役に立っている」という実感が持てる仕事だということに大変魅力に感じ、入社を決めた。

「俺も社会の役に立つぞ!」
 私は高い志とともに社会人生活をスタートさせた。


 しかし残念なことに、この会社こそが
 まさに「自分に合わない場所」であった。

 まず、私には機械設計という仕事が向いていなかった。

 入社してすぐに気づいたのは小さなミスの多さだ。
 どれほど確認をしたつもりでも図面の寸法漏れ、他の部品の干渉、穴径違いなど、大小さまざまな初歩的ミスを重ねてしまった。
 自分のことで手一杯になり、「ホウレンソウ」の不備などで周囲との連携がうまくいかない場面もあった。

 社会人2~3年目の頃までは「まだ若手だから」「まだ不慣れだから」と、しんどいとは思いながらも「いつか慣れる」という希望を捨てられなかった。
 しかし5年目を過ぎても、これらのミスはあまり減ることがなく「あれ?」と思い始めたのだ。

 仕事自体は確かにやりがいはあったし、達成感を得られたときもあった。入社前に思い描いていたような「コンビニやスーパーの商品」に携わったこともあった。
 私が担当した開発機が、業界の雑誌に掲載されたこともあった。
 しかし、それであっても無力感を覚え、「虚しさ」のようなものが心の片隅から消えることはなかった。

社員とも合わない

 大半の社員と人間的に合わなかったことも、非常にしんどかった。

 私がいた会社は
 よく言えば「古き良きアットホームな体育会系の会社」
 悪く言えば「いつまでも昭和なパワハラ・セクハラの温床」であった。

 何度、社内会議でつるし上げられて罵倒されたことか
 何度、飲み会でウィスキーのストレートをイッキ飲みさせられたことか
 何度、現場でケツを蹴り上げられたことか

 投げつけられた「パイレン」が肩に当たって青あざになったこともある。

 数年が経った今でもまだ、不愉快に感じる苦い記憶だ。

 今こうして振り返ると
「誰がどう見ても明らかに合っていない環境」だったのだが
 就活時には「この会社に入りたい!」と強く希望して入った会社であり
 また、ある程度安定していた会社であったため、簡単に「辞める」という結論に至ることができなかった。

 こうして私は
「仕事も人も合わない」
 という環境に必死で適応しようともがいていた。

「この会社にふさわしい人間にならなくてならない!」
 と、「自らの人格」を変えようとしていた。
 もちろんのこと、それは大変な困難であった。

 次第に「会社にフィットできない自分」のことを大嫌いになり、自己肯定感は地の底に落ちていった。

 このようにして自己肯定感が極限まで落ちた私は
「こんな無能な人間、どこも雇ってくれない」と勝手に思い込んでは、転職活動に踏み切ることもできないという負のスパイラルに陥った。

「あ、この会社ムリ」となったきっかけ

事件発生

 私がこの合わない環境から「脱出しよう」と思ったきっかけは、社内で起こった「とある事件」だった。

 ある朝、始業前のラジオ体操の後
 朝礼で総務部の課長がどこか暗い面持ちで
「皆さんに大変残念なお知らせがあります」と話し始めた。

 周囲の社員たちも
「え?」「誰か亡くなったんじゃない?」などと話している。

 総務課長は静かに話し始める。
「えー昨日、社内にて、木下班長の財布が無くなりました

 そう、社内で「盗難事件」が発生したのだという。

 課長の話では
「製造の木下班長が、工場内での作業中に財布を置き忘れてしまった。
 しばらくして木下班長は財布を忘れたことに気づき、その作業場に戻ると、財布は無くなっていた。
 その後、木下班長は工場やオフィスをくまなく探すも結局財布は見つからなかった」
 ということだった。

 木下班長はその後「すいませんねぇ」と言いながら前に出てきて
「嫁さんにもらった財布で大切に使ってたので……まぁ置き忘れた俺も悪いんですけど、もし持ってる人いたらこっそり元の場所に戻してください。中に入ってた現金は使ってくれていいっす」
 と、笑いながらも悲しさを滲ませていた。

「あ、マジ無理」

 私はこの朝礼を聞きながら、吐き気を催すほどの嫌悪感を覚えた。
「えっ? 何このレベルの低い集団」

「この人たちと同じ集団に属してるなんて本当に嫌だ」
 という思いが心の底から湧き上がってきたのだ。

 炎上したプロジェクトで140時間の時間外労働をしようが
 どれだけ罵倒され蹴られ工具を投げつけられようが
「何とかこの会社の役に立つ人間になろう」と必死だった私が
 一瞬で「冷めた」のである。

「絶対こんな会社に骨を埋めたくない」
 というその一心で、その日の夜に転職エージェントに登録をした。

転職。「何をしたいか」ではなく「何ができるか」を考える

 私はもう、機械設計という仕事に適性がないことに気づいていた。

 そのため、「ここはキャリアを変えよう」と決心した。

 そして「何をしたいか?」ではなく「私に何ができるか?」を軸に仕事を探していった。

 結果から言うと、これが大正解であった。

「私に何ができるか?」を考えた結果。不登校支援の塾という選択

 話が変わるが、私は三年ほど不登校になった時期があった。
 入学した高校でいじめに遭い、半年で学校に通えなくなって通信制高校に転校したのだ。

 その頃は、ほぼほぼ不登校同然のひきこもる日々。
 昼夜逆転し、2chのVIPや音楽板などに入り浸る毎日だった。

 ある日、求人サイトを眺めていると「不登校支援の塾講師」という求人を見つけた。

 私は通信制高校でひきこもりの3年間を過ごした後
 なんとか一年間の浪人生活を経て大学に入ったのだが
「そのときの経験が活かせるのではないか?」と私は考えた。

「不登校から大学受験」という自らの経験は
「今まさに苦しんでいる若者たちの役に立てるのではないか?」
と考え
 その思いをエントリーシートに書いた。

 こうしてすぐに面接に呼んでいただき、トントン拍子で採用通知をいただくことができた。

研修が始まる。ベテラン講師の語る「いい講師」を目指す!

 研修では、ベテランの講師が勉強の教え方だけではなく、生徒さんとの関わり方などを丁寧に説明してくれた。
 その塾の生徒さんは、やはりつらい思いをされている方が多く、メンタルケアが必要になることも少なくないとのこと。

 そしてその講師が研修の終盤で話していたのが

「いい講師って、生徒さんに『もっと塾に来たい』と思わせるんですよ。これって実はすごいことなんです」

「もうね、『先生の授業、週に1コマじゃ足りないから2~3コマ増やしてください』って言ってもらえると、めちゃくちゃ嬉しいですよ。難しいですが、皆さんもココを目指しましょう!

とのことだった。

 なるほど、そこまで生徒さんから信頼してもらえるようになるには時間がかかるだろうけど、そうなれるように頑張ってみよう。

 私もひとまず、このことを目標に掲げ、「いい講師」を目指そうと
 自分を奮い立たせた。

緊張の初授業。そして…

 私が初めて担当することになった生徒さんは
 私と同じように、全日制高校に入学したが合わずに通信制高校へ転校し、そこをなんとか卒業。
 理系の大学に進学したいという生徒さんであった。
 以下、この生徒さんをTくんとする。
 私はTくんの数学の授業を担当することになった。

 久しぶりの高校の勉強。必死に数学1を復習した。
「因数分解、二次関数の最大最小、平方完成……。
 この辺りはまだ覚えてるな。
 二次不等式、ここ意外と教えるの難しいな……」

「何となく計算ができる」ではいけない。
 しっかりと理解し、かみ砕いて教えなくてはならない。
 間違ったことを教えてはいけない。

 一つ一つ丁寧に咀嚼しようと、机に向かっていた。

 いよいよ初授業、Tくんと緊張の対面。
 Tくんは思っていたよりずっと大人っぽい青年で、しかし彼もまた緊張の面持ちだった。

 Tくんにはまず「私もかなり緊張している」ということ
「私も通信制高校卒の仲間である」ということを伝え
「これからどう勉強していきたいか」という要望を聞き
 今後の簡単な授業予定を話し、ときには雑談を挟みながら、彼の持参した教材で因数分解の説明をした。
 90分の授業。思っていたよりもあっという間に時間は過ぎた。

 その後、Tくんを「また来週! 気をつけてね!」と笑顔で見送り
 物静かなTくんは少し照れくさそうに会釈してくれた。

「私の授業、気に入ってくれてるといいな」と思いながら、授業の報告書を書き上げた。

 翌日、私のスマートフォンに着信が来ている。画面を見ると塾からだ。
電話に出ると

「杉菜先生、お世話になっております。昨日ご担当いただいたTくんの件ですが……お母様からご連絡がありまして」

 私は「な、なんだろうか」と身構える。

「ク、クレームだったら申し訳ないな……」

杉菜先生の授業がとても素晴らしかったらしくて、Tくんがあと2コマ授業を増やしたいと話しているみたいなんです。杉菜先生、他に空いている曜日はありますか?」

大きな驚きと戸惑いと共に、私は目標を一日で達成した。

おそらく「自分に合う場所」だったのだ

 この塾には数年お世話になった。
 学生時代のアルバイトなどを含めても、最もストレスなく働くことができていたように思える。

 もちろん、簡単なことばかりではなかった。

 給料が高かったわけではないし
 ある程度の無茶ブリもあった(毎日5コマぶっ通しでやってほしいとか、やったことない科目もできるようになってとか)
 授業の予習で休日が潰れたこともあった。
 頑張った生徒さんが残念な結果になったときは、同じように悔しかった。

 受験シーズンの合格発表前。胃がキリキリした。
 一月から三月のプレッシャーは何度経験しても慣れなかった。

 しかし、あの塾は総じて、「自分に合う場所」だったのだろうと思う。
 生徒さんたちや同僚とのコミュニケーションは楽しかった。
 毎日、笑顔で過ごすことができ、幸せだった。

  ちなみに上で話題に出したTくんだが
 一年目はどこにも合格できなかったが、二年目に見事大学に合格し
 現在は大学生をやっている。
 合格の報告を受けたときは思わず教室で叫んだ(笑)

 楽しい学生生活を過ごせてるといいな!

 Tくん以外にも、見事に合格してくれた生徒さんはたくさんいる。
 合格と言うのは私の努力では達成できず、紛れもなく生徒さんの努力の結果なので、そういう生徒さんたちの成長を感じることができる、本当に尊い仕事であった。

月並みだが自己肯定感は本当に大切

 こうして私は、「自分に合う場所」で自己肯定感を取り戻すことができ
 今では人並みの自信を持てるようになった。

 そして、「合わない環境」では、この自己肯定感を保つことはたいへん難しいだろう。

 先述の私のように、「合わない環境」でもがいている人に忘れないでほしいことがある。
 それは、あなたに不思議なくらいフィットする環境はきっとある。ということだ
 あなたは「今いる場所」にはうまくフィットできないかもしれない。必要とされている感覚をなかなか持てないかもしれない。
 しばらく頑張ってみて、それでもどうしても合わないと感じたら、そのときは次のステージを探してみよう。

 noteを始めたり小説を書き始めたのも、この経験から「とにかく行動することが大切」と学んだからである。

 相変わらず私は不器用だったり、苦手なことばかりな人間だが
 自己肯定感が高まったことで、そういった自分の欠点までしっかり受け入れられるようになった。
 ある意味、自分のことを「健全に諦める」ことができたように思える。


 あの日、あの求人を見つけて、そして決断して、本当によかった。

#自分で選んでよかったこと

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