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はじめまして、いきなり創業400年の酒蔵社長になった元普通の主婦、山城屋酒造の宮﨑朋香です。


はじめまして、いきなり創業400年の酒蔵社長になった元普通の主婦、宮﨑朋香です。
急死した弟が必死で復活させた酒を守るため、山口県山口市の商店街の酒蔵で代表をしています。
現在社長をしていますが、元々はどこにでもいるごく普通の主婦でした。
社長を務めていた弟が病気のため急逝し、家業である酒蔵を6年前に継ぎました。
400年続いていた酒造の歴史が自分の肩に乗り、それを絶やしてはいけないという思いだけで継ぐ決心をしました。

当時は、山城屋酒造を守りたい気持ちでいっぱいで、がむしゃらになんとかやってきていろいろな壁にぶち当たってきました。酒造りの勉強をしてきたわけでもない、経営の勉強をしてきたわけでもない。なのでぶち当たる壁も大きいですが、それでもなんとか気持ちだけは前向きに走ってきました。
noteでは、いきなり社長にならざるをえなかった時のドタバタした話や、お酒造りの話、山口のいいところなどを書いていこうと思っています。どうぞよろしくおねがいします!


宮﨑朋香プロフィール


いきなり創業400年の酒蔵代表になった元普通の主婦です。急死した弟が必死で復活させた酒を守りたいと酒造りの道へ。女性が気軽に日本酒を飲むきっかけをつくりたい! と、山口テロワールを大事に田植えから酒造りをしています。神社・着物・温泉が大好き。 山口県のいいところたくさん伝えていきます!

400年の歴史、山城屋酒造




山口県山口市で江戸時代から続く『山城屋酒造』。自社醸造の中断や日本酒造りの復活、先代社長の急逝、女性蔵元の誕生など、さまざまな出来事を経て、400年の歴史を歩んできました。山口県で造る日本酒の美味しさを届けるため”失敗を恐れず前向きに”をモットーに、これまで数多くの挑戦を続けてきました。丹精込めて作った日本酒をぜひ皆様にも知って・飲んで・好きになっていただきたいです。


山城屋酒造の日本酒


山城屋酒造のある山口県山口市は人口約20万人。県の中部に位置し、盆地で気温差が大きく、『夏は暑く・冬は寒い』という、日本酒造りに最適な気候です。暑い中での田植えや稲刈りは大変ですが、寒い時期は温度管理がしやすく菌の繁殖がしにくいという環境の中で、お酒を作っています。
山城屋酒造の日本酒は、こだわりの米や水を使用して製造しています。米は山口市阿東徳佐の契約農家が栽培する化学肥料不使用の山田錦、水は山口市三大名水「柳の水」のふもとの山口大神宮の伏流水を使用。「メイドイン山口」を徹底しています。山口の神様の水と、山口県産にこだわった化学肥料不使用の米でつくった日本酒、山口のお酒を地元に住む人たちから日本各地に届けたい。山城屋酒造のお酒があなたの笑顔のきっかけになるように、真心を込めて製造しています。

宮﨑朋香のいままで

小さい頃、実家が酒蔵だった私にとって酒造りをする蔵はかくれんぼをする場所にもってこいの隠れ家でした。発酵しているお酒の香りはいい匂いがして、うす暗くてたくさんのタンクが並んでる様子は子供ながらに、ここはなにか違う空間なんだなと感じていました。お酒の神様でもいたんでしょうかね。

小学生の頃は、猿みたいに裸足で外遊びをして鉄棒から落っこちて血だらけになったり、木登りが得意だったり、中学生の頃は応援団をやったりと活発でどちらかというと目立つ方でした。

高校に入ると小中とは違うコミュニティーの人が入学するので大人しくしておこうと思っていたのですが結局目立ってしまい、目をつけられて呼び出しをくらったり、自転車のタイヤをカッターで切られたり、目立つゆえの迫害を受けることもある学生でした。

学校に行きたくない!と思っていましたが根っからの負けず嫌いな性格なので必死に通っていました。酒蔵の代表になると決めたのも、この負けず嫌いな性格からきていたのかもしれないです。

大学進学後、就職したのは山口銀行でした。昔は、長男が後を継ぐというのが当たり前の時代だったので、「きっと弟がうちの酒蔵を継ぐんだよね」と子供ながらに思ってましたし、両親もそのつもりだったので、まさか今自分が社長になっているなんて思ってもみなかったです。ただ、大人しい性格だった弟より、私の方が男まさりな性格だったので「性別が逆だったらよかったのにね」とまわりからよく言われていました。

その後結婚し、3人の子供に恵まれました。実家を手伝いつつ、認知症の祖母の介護と更年期の症状で鬱になってしまった母の看護に必死でした。祖母の昼間の徘徊、死にたいという母の言葉にどう接したらいいのかわからず、3人の子育てをしながらの介護と看護いう事もあり、とても大変な時期でした。

そんな中、弟は山城屋酒造のお酒を再開させたいという気持ちがあったのでしょう。自分なりにメイドイン山口にこだわった酒造りということで、自社ブランドとして何かできないだろうかと試行錯誤してこの「鴻城乃誉」が復活しました。


「鴻城」とは、山口市を昔は、「鴻城」と呼ばれていました。
山口大神宮の上にある山を鴻ノ峰と言います。そこにお城がありました。
鴻ノ峰にあるお城を誉めたたえる。ところから名付けられたと言われています。

うちの山城屋酒造は、1611年(慶長16年)創業、400年の歴史がある酒蔵なのですが、仕込み水の水質悪化で、1975年(昭和50年)に自社醸造を中断し、現在は、ほかの酒造へ委託製造をしているのです。それなので現在自社醸造のお酒はなく、そのために弟は昭和初期に山城屋酒造でつくられていた日本酒の研究を頑張っているんだなと思っていました。

介護と看護を2年続けたあと、主人との離婚と母の死が重なり、そんな状況の中弟が大腸がんで急死しました。弟はまだ41歳でした。

亡くなる3か月前のこと、急に弟から家に来てほしいと言われ、実家にいきました。その時には、もう元気な時の弟の面影はほとんどありません。母の事もありますからたぶんあまり長くないのではと心の中では思っていましたが、でも彼にそんなことは言えませんでした。

その後年末に病院に行くと、ほとんどしゃべれる状態ではない弟の姿がありました。でも、彼は彼なりに「早く仕事に復帰したい」「正月には必ず会社に行く」とか細い声で言っていたのを覚えています。
「そんなことより、まずは自分の体調を整えて復帰することを考えなさい」と「後のことは私がなんとかするから、ゆっくり完治することだけを考えて」と伝えましたが、正月をむかえそのまま仕事に復帰することなく亡くなってしまいました。

私が家業を継ぐ決心したのは、この病院での出来事が大きいです。山城屋の再建を願い頑張っていた弟が亡くなり「これはもう私がなんとかするしかない!」と継ぐ覚悟を決めたのが5年前の2018年でした。
そんな中、実家である酒造へ行くと、初日に配達の方に辞める宣言をされ、入社して2週間目には社員4名のうち3名が辞めてしまったり、はじめての日本酒イベントに参加したら、お客様からお米やお酒の造りの質問に答えられずに家で悔し泣きをしたり、と本当に最初はドタバタでした!

「いきなり社長になってから現在までのドタバタ奮闘記」は、こちらのマガジンに書いてあるのでよろしければぜひ読んでください。

https://note.com/sugihime/m/mc0d4e5318c88

宮﨑朋香のこれから

普通の主婦がいきなり社長に就任して5年。

就任して右も左も分からない状況で走りはじめ、新型コロナウイルスにより思うように動けない時期もありました。外出の規制により、飲み会や外食が減り、当然酒屋に来てくださるお客様の数も減りました。しかし、弟が死ぬ気で復活させたお酒、そして地元・山口で400年飲まれてきた山城屋酒造のお酒をもっと多くの方々に味わってもらいたい、という気持ちは、どんな状況になっても変わりません。

2023年はWebとECの立て直しをおこない、パンフレットなども刷新し、ようやく土台が整ってきました。山口市内はもとより日本中に、地元密着でつくる山城屋酒造ブランドの日本酒を広めたいと思っています。丹精込めて作った日本酒をぜひ皆さまにも知って・飲んで・好きになっていただきたいです!


酒造を継いだ時は、1名になってしまった従業員もいまは5名に増えました!

そして今後の夢は、自社の酒蔵の再建です。現在は、原材料を持ち込み、ほかの酒造へ委託製造の協力をいただいていますが、いつか自分たちの酒蔵を立て直しそこでお酒を造りたいです。
いま大学生になる私の息子も自発的に酒造りの勉強をしてくれています。まるで弟の意志を継いでいるようでとても嬉しく、山城屋の400年の歴史と息子の架け橋になりたいと願っています。


400年続く山城屋酒造の歴史はお酒だけではなくここ山口県地域全体の財産だと考えています。この長い歴史を絶やさない役割を果たすことができるよう、今後も頑張りますので、どうぞよろしくおねがいします!

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