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ケン・リュウ「良い狩りを」書評

今週の書評1本目は、ふたたび根本龍一さんです。

ケン・リュウ「良い狩りを」(『もののあはれ ケン・リュウ短篇傑作集2』ハヤカワ文庫SF、2017年)

評者:根本龍一

発明における功罪の表裏一体性

 いわずもがな、一つの技術の発明がもたらす恩恵と既存権益の破壊は表裏一体である。新しい技術が生まれ、この利便性が周知のものとされるとき、多くの人はこれに希望を抱き、より便利になる未来への展望を想うだろう。あるいは金のにおいをかぎ取った商人たちは必死に知恵を働かせるだろうし、投資家は実際に金を動かすだろう。そこには新しい仕事が生まれるだろうし、経済活動は活発になるだろう。しかし一方で、新たな発明は、それまでその分野を支えていた既存の技術にとってかわることになる。つまり、それまでの技術によって支えられていた体系は、破壊されることとなる。自動車の発明は、馬車や人力車を淘汰し、インターネットの発明はテレビ、ラジオ、新聞などのメディアを脅かしている。そして、これらの淘汰は、少なからず生き方を変える人間を伴った。仕事を辞めた人間、住む場所を変えた人間、肉体労働によって体つきが変わった人間、考え方や精神性が変化した人間……。鉄道の発明もまた、諸国の多くのものを変えていった。
 中国系のアメリカ人であるケン・リュウが書いた「良い狩りを」は、技術革新の波に巻き込まれ、生き方を大きく変えざるを得なくなった若者と妖狐が、新たな生き方を摸索していくその過程で芽生えた愛情を描いた作品である。妖怪退治の家に生まれ、仕事を継ごうと日々を過ごす主人公は、父の仕事の見習いのさなか、妖狐の少女と出会う。イギリスによる植民地化が進み、妖怪退治の仕事がだんだんと減っていく当時の中国のなかで、主人公は妖狐との逢瀬を繰り返していく。イギリスから持ち込まれてきた鉄道が地脈を破壊することや、近隣住民の怪異への信仰が科学によって破壊されることが原因で、妖怪は次第に力を失いつつあることがわかり、妖狐は姿を消し、妖怪退治を生業にしていた父は自殺し、かすがいを失った主人公もまた、技術革新によって生まれた職業に身を置き始める。技術を学び、腕を買われて出世し、その過程の時々で力を失って妖狐ではなくなった女と再会を果たす。体の一部を機械にされてしまった妖狐だった女は、機械の可能性に目をつけて主人公のもとを訪れる。彼女は、機械の狐になりえるように主人公に改造してもらい、機械仕掛けの妖狐として、妖怪への転身を果たした。主人公は、この新時代のために作られた妖狐に、恋をしていた。魅了の力を取り戻した妖狐に、もっともはやく魅入られたのは、それまで一度も惑わされきっていなかった主人公であった。
 この作品における構成要素は極めて多く、その各要素の説得力と突飛さが読者にさわやかな読了感を与えている。近代は科学の時代だが、それ以前の世界における信仰の時代からの変遷には大きな抗争・困惑があったと思われる。この時代の変遷に巻き込まれる信仰時代の世界の住民、という構図には、「こういう話なら妖狐がいてもおかしくない」という説得力を感じさせる。また、妖怪退治を生業とする父の精神の衰弱、科学観に染まっていく都市の世論の流れをしっかりと描くことで、自然な時代の流れを読者につかませる。主人公が工業に身を投じるようになったのちも、イギリス人による統治の様子、主人公と妖狐の新時代への迷いと適応、など、この複雑な変遷を読者につかんでもらうために必要な要素を自然な流れでストーリーに組み込んでいる。この自然な流れこそが、前近代のファンタジー世界から、今作後半におけるSF世界への突飛ともいえる世界観の飛躍の不自然さをなくしている。序盤からは想像がつかない、機械仕掛けの妖狐への変化という結末は、きわめて多くの構成要素を結びつける精緻なシーン作りのなしえる技であり、クライマックスシーンの機械の妖狐への変身シーン、夜の香港に飛び立つ妖狐の自由そのものの姿の「ありえざるを実現する喜び」「不可能を成し遂げることができた爽快感」のカタルシスもまた、この作品の世界観の振れ幅、つまり自然に用意された構成要素の多さがもたらしているのだ。
 この自然な物語の流れの中でも、私はやはり、「工業化の波がそれまでの地域の風俗を破壊する」というメッセージ性の強い展開に目を引かれた。工業化、蒸気革命に際立って悪いイメージを持つわけではない人は少なくないと思うが、この作品を読んだ後ではその負の側面に目を向けざるを得ない。この作品において主人公の父、主人公、妖狐をはじめとする登場人物は多かれ少なかれ自己の生活を変えることを余儀なくされているし、それはネガティブな側面をおおきく含んでいるのは言うまでもない。最終的に主人公も妖狐も納得のいく、きれいな終わり方ではあったが、その過程では「時代の波にもまれる若者」という構図があることは間違いなく、その変化は序盤の鉄道の開通から明確に主人公たちの前に姿を現す。もちろん、鉄道は極めて利便性の高い移動手段で、現代においても新幹線、電車、地下鉄という形で我々の暮らしに寄り添っている。しかし一方で、この小説において語られる文化および自然破壊に改めて目を向けると、いやが応にも負の側面を発見してしまう。
 両側面を見ることは、これからの世界を生きていく我々には備えておきたい考え方だ。「災い転じて福となす」。ものごとの功罪は表裏一体であり、いいとこ取りというのは不可能なのかもしれない。発明に何らかの形で現れてくる負の側面にも注目することの重要性を、この物語から学ぶことができる。だがこれは、作品の結末のその先に馳せる思いを曇らせてしまう教えかもしれない。主人公が妖狐を改造し、時代に即した新たな妖狐を発明したこと。これはすなわち、今は表に出ていない負の側面がこれから表出してくるのではないか。そういった、ある種の無粋な想像を私たちにさせてしまう。著者のケン・リュウ氏は、あるいはこの考えも予想して、機械仕掛けの新たな妖狐の開発が完了した門出でこの小説を終わらせたのかもしれない。

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