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晴れて

「書類の不備があれば、連休明け5月7日の午前中にご連絡します」

千葉県某市役所の夜間窓口で言われた一言。時刻は5月1日0時を少し回ったくらい。この文章を書き始めたのは5月7日午前10時16分だから、お昼になるまであと2時間弱。携帯電話が鳴らないようにと祈りながら、落ち着かない気持ちを紅茶で鎮めている。

察しの良い方ならもうお分かりかもしれないが、婚姻届を出しました。もちろん役所は祝日・夜間にはやっていないので、受付だけで書類の処理は連休明けとなる。そして、ご存知の通り今年は10連休ということで、長い長い休み明け、今まさにペーパーワーク進行中ということになる。市役所のどの部署の方が書類を点検しているのかは知らないが、住所だの本籍だのを照らし合わせながら、誤字はないか、書き損じがないか、きっと調べているのだろう。「令和婚」がニュースになっているくらいだから、書類の山もいつもより多いはずだ。

「あれ、信州松本に引っ越したのになんでわざわざ千葉県の市役所なんだ?」と思った方がいらっしゃったら、その勘の良さに金一封差し上げたいくらいである。
特に理由はないのだが、なんとなく覚えやすいし縁起がいいかね、ということで令和が始まる5月1日に提出する日を決めた。前日に当たる4月30日の夕飯前、書類を確認しようと、まとめておいた婚姻届一式を点検。わざわざ北海道まで父の署名をもらいに行った婚姻届、チェック。私の戸籍謄本、チェック。そして...

彼の分の戸籍謄本がない!

お互いに本籍地でない場所で婚姻届を出す場合には、どちらも戸籍謄本が必要である。しかし、郵送で千葉から取り寄せておいたはずの彼の戸籍謄本が...ない!重要な書類だから、捨てたということはないはずだ。引越しの荷物の中に紛れてしまったのだろうか。どこかの隙間に落ちてしまったのだろうか。リビングの書類棚から寝室、物置部屋、納戸の中まで文字通り家の中をひっくり返して探した、が...ない!

特に5月1日という日に思い入れがあるわけではなかったが、指輪の内側に日付を彫ってしまっている。あぁ、なんで入籍日が確定するまで待たなかったのだろうと、ジュエリーショップで浮かれていた自分を恨みながら、ほとんど泣きそうだった。

「千葉まで行こう...」

しばらくして彼がつぶやく。そう、本籍地で婚姻届を提出する場合、その本人の戸籍謄本は必要ないのだ。松本から千葉まで、車で5時間弱。その時夜の7時だから、ちょうど0時頃に着くはずだ。昼間は連休で渋滞するだろう、善は急げだと、平成最後の深夜のドライブが決定した。

本当なら当日お昼前に役所に行って、お祝いに美味しいうなぎでも食べて帰ろうかと話していたが、それもお預けになってしまった。眠気覚ましに平成ヒット曲のプレイリストを大熱唱しながら、街灯もまばらな田舎道をひた走る。途中コンビニに寄ってお菓子を買い込んでパクパク食べながら進む。こうなったら遠足気分で楽しむしかない。愚痴るでもなく、黙々と車を飛ばしてくれる彼の横顔を見ながら、申し訳ないような頼もしいような、この人とならやっていけるだろうという気持ちが確信に変わる。上田へ向かうトンネルを抜け、霧の軽井沢を過ぎ、群馬・埼玉を経由して、無事に市役所の駐車場に到着。時刻は夜11時半。しとしとと雨が降っていた。私たちの平成が終わる瞬間だった。

市役所の臨時窓口には我々の他にすでに3組ほどの男女がいた。フォトスポットまで用意されていて、深夜なのに皆キラキラした顔で記念写真を撮っていた。「お写真お撮りしましょうか?」と職員の方も気を利かせてくれたのだが、スッピンとジャージのコンビは丁寧にお断りした。令和婚というだけでも気恥ずかしいのに、さらに日付をまたいですぐに役所にくるなんて、なんだかすごく気合いが入っているみたいだ。まさか5時間近くストイックに車を飛ばしてここまで来たなんて、その場にいた人たちは知る由もない。思いがけずベタにベタを上塗りしたようで、なんだか可笑しかった。

帰りがけにはお腹が空いて、深夜までやっていた国道沿いのびっくりドンキーに立ち寄った。お祝いのうなぎはレギュラーバーグディッシュになってしまったけれど、ホッとした気持ちもあいまって、その温かさが染み渡った。来年の結婚記念日には絶対美味しいうなぎを食べるぞと思っていたけれど、びっくりドンキーもありかもしれない。夫婦になり、これから喧嘩もするだろうし、馴れ合いやお互いに不満を感じることもあるかもしれない。でも私たちは山を越え、夜を越え、わざわざ5時間も車を飛ばして婚姻届を出して、深夜にハンバーグをうまいうまいと食べた仲なのだ。大抵のことは笑いあえるだろう。

上田あたりで朝日を迎えた。徐々に空が白んでいき、雲海の隙間からほんのり朝日が差し込んでいく。真っ暗だった山の風景は萌黄色に輝き、その隙間に山桜の白が眩しい。ツバメと鶯がさえずる令和の始まり。不思議な連帯感と共にようやく家にたどり着き、婚姻届をめぐる大冒険は幕を閉じた。クタクタになりながら「夫婦最初の試練だったね」と笑い合えるこの関係が、ずっと続きますようにと小さく祈りながら、深い眠りに落ちていった。

そして現在時刻は12時45分。ついに電話は鳴らなかった。
令和元年 5月1日、晴れて夫婦になりましたのでご報告致します。

寺岡歩美

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