Baked Birthday Cakes

 ダイニングのテーブルに置かれていた小包の上の、白いメッセージカードを指でそっと掬うと兄は青い目にそのささやかな英文を映す。カードの右下と左上にはノルウェーパインの葉が描かれ、差出人不明のプレゼントが誰から贈られたものなのか言葉少なに語っていた。やおら微笑むと兄は首をほんの少しだけ振り向けて、キッチンで卵を手に取る俺に呼びかけるようにそれを読む。
「Happy birthday my dear, hope your special day is as sweet as you.」
「誰から?」
「差出人の欄は空だが、まあケインだろうな。相変わらず趣味の悪い、」
 続きを態とらしい溜め息で補うと兄はカードを置いた。ノルウェーパイン、――Norwegian wood。ケインは兄が16の時の同窓でビートルマニア、彼らをアイドルグループとしてしか認めていない兄は一貫して級友の趣味を見下しており、また相手もそれを分かっていて『ノルウェイの森』を添えてきたわけで、俺は時々自らも含め“イングリッシュ”というやつの性質(たち)に嫌気が差したりするんだけれどそれは大抵こんな瞬間である。とはいえそいつが心地よく感じることも当然あって、畢竟“イングリッシュ”にとっての“イングリッシュ”とは我らが島国の頭上に常に重くたれ込める灰色のグラデーション、のようなものだろう。鬱陶しいが愛しくもある。
「兄貴、冷蔵庫」
「うん?」
「冷蔵庫の中にまだあるよ。今朝届いた」
 油を落としたフライパンに卵を割り入れながら俺は、背後の銀色の直方体を指す。兄はキッチンへ足を踏み入れ、冷蔵庫の扉を開くと中から発泡スチロール製の大きな箱を取り出した。それは今朝チルド便で届いたもうひとつの贈り物で、同じく差出人は不明だったが品名だけは記されている。黒のボールペンによって走り書かれた“Cake”の文字。
「これは?」
「誰からかは知らない。かなり早くに届いたの、朝の5時くらいかな」
「へえ、」
 兄は箱をカウンターへ運びその筆跡を指で撫ぜ、それから蓋をぱこんと外した。中身を確かめると兄は、ああ、と得心がいった様子で、声を漏らし再び封をする。元の通りに箱を収める兄の姿を背に感じながら俺は尋ねた、中身、なんだった?
「今日のブランチ」彼は答える。「アーニー、何か言うことは?」
 しばし口を噤んでから俺も応える。「Happy Birthday, Curt」
 よろしい。呟いて、兄は肩越しに俺の耳朶みみたぶへキスをする。硬い歯が柔い肉を食み、彼の吐息の熱さが俺の小さな肌を火照らせる。知らず、唾つばきを飲みこむと兄の爪が追いかけるみたく喉仏の上を辿って、鎖骨の境をひとつ、叩く。
 兄の体温が去ったあと、俺はフライパンを見つめている。ぱちぱちと油の弾ける音が、森に包まれた静寂のうちに密やかに、響いている。

「ストレスを与えると、質が悪くなるからね」
 俺が書斎に入ったとき彼は何やら書き物をしていた。目つきで促されるまま向かいの椅子へ腰を降ろすと、万年筆を便箋に走らせているのが見える。彼は顔を俯けたまま用を尋ねた。“仕入れ”のことだと答えれば、その薄い唇の端が仄かに愉悦めいて上がる。
「質?」
「肉の質だよ、ダーリン」彼はふざけた調子で、「魚だってそうだろ?」
 曰く。日本では釣り上げた魚が暴れぬよう、細い針を魚の脊髄に通し神経を潰すのだそうだ。そうすれば苦悶にのたうち回り肉の質の落ちることが無くなる。この行為は神経締め、若しくは活け締めと呼ばれていて、死後硬直を遅らせる効果もあるらしいが、いずれにせよあくまでも魚をより良く賞味するただそれだけの為に人間はそこまでする訳だ。して、目の前の男も然り。“肉”達の脊髄を切れとでも命じるつもりか、などと訝しんでいるとカートは書き上げた手紙を丁寧に二つに折り畳み封筒へ収め、宛名をさらさらと書いて寄越した。受け取って、検める。差出人の名前が無い。
「ついでに出しておいてくれ。礼の品も適当に選んで」
「品、ねえ。ワインか?」
「そうだね。赤ワインがいい」
「了解」
「それで。今日の肉のことだけど、」
 キャップを締めた万年筆の先で唇を弄りつつ、彼は視線を横へ流した。考えを巡らす間があって、ほどなく、話し始める。
「ジュリーの具合は?」
「健康だ。異常ない」
「そこは心配していない、君の管理だもの」
「仕上がりか。まずまずだな、俺には味はさっぱりだが」
「弾力があって肌艶がよければ大抵は美味しいよ。他にお勧めは?」
「さあなあ、エイプリルなんかいいんじゃないか。活きがよく見えるぞ」
「そりゃあ活きはいいだろう? まだ生きてはいるんだから」
 何とはなしに嘆息する。俺は続けて、
「どんくらい持ってくりゃあいい」
「そうだな。なんせ誕生日だから、」
 珍しく声が弾んでいる。とはいえそれは跳ね上がるボールを直前で押し留めたような控えめなものに過ぎなかったが、なんせ、付き合いが長いんでね。
「いつもよりは奮発して。豪勢な食事にしよう」
「そうだな」
「とはいえ、200gもあれば胃は落ち着くから、まあ、そのくらいかな」
 聞きたいことは聞けた。そのまま席を立てば彼は、少し手をあげて俺を制し、自らもまた席を立って俺の傍までやってくる。書斎の窓からはすぐ裏に生えている常緑樹が見える。春の陽射しは茂る葉叢を透き通ったセロファンに変え、緑に、黄に、色をなびかせる。気をとられている間に彼の女のような滑らかな手が俺のネクタイをするりと咥え、次の瞬間、引き寄せられた。鼻先に彼の顔がある。彼はゆっくりと頭を傾げ、同じ速度で口づけをする。一度、触れて、刹那離れて、今度はやや長く音を立て、三たび交われば舌がぬるりと隙間を割って挿し込まれる、俺はその赤を知っている。蜜を舐めとる蜂の仕草で、艶かしく縺れ俺を啜る。
 これは咀嚼だ。彼の、食事。
「甘い、」ふと、零してまた塞ぐ。
「君の唇は、――舌は、――歯は、――唾は、――肌は、全て。甘いね」
 酔った温度で紡がれる彼の睦言が鼓膜を揺らした。俺の味蕾には彼の味など分からないが黒髪から香る花の匂いだけは鼻腔を擽り、それも離れれば消えていく。食っているのか食われているのか、あるいは双方が正解か、物心ついた時分からこの化け物と一緒にいるが俺には未だ判然としない。狩っているつもりで、飼われているのか。飼われているつもりで、狩っているのか?
「ああほんとう、」恍惚として彼は笑う、「丸ごと、食べてしまえたらいいのに」
 でも、寂しいから。続けて彼は、俺の幼馴染は背中に腕を回して頸筋を舐めた。いなくなったら寂しいから、君のことは、絶対、食べないよ。エディ。
 薄い体を抱き締めて、俺は沈黙に耳を澄ます。窓の外に吹く風の音が、微かに耳を撫でていく。

 私はどこへ連れてこられたのか、どうしてここなのか、なぜ私なのか、何一つはっきりしないまま時を過ごしてしまっている。外へ出られないという点以外は(それも定義次第では当てはまらない。この施設には庭があり、定期的に私たちはそこで草木を感じることができる。脱走を企てようにも敷地はあまりに広すぎて、限りなく続く芝生の平野を渡っていく気はとても起きない。何人かそれでも、看守の制止を振り切って走り出した者がいる、彼らの行方を誰も知らない)不自由なく生活できていて、それもまた脱走者の少ない理由でもありそうだった。人によっては、ここに来る前の暮らしと比べ格段に快適だと感謝さえ述べることもある、私もどちらかといえば、ここへきてからの生活のほうが質は良い、出される食事や飲料は申し分なく洗練されており、娯楽も好きに注文できる、映画にしろ音楽にしろ漫画にしろ本にしろ、望めば大体数日中に手元に届く。何の作業も義務も強いられず、せいぜい体を清潔に健康に保つこと、それくらいしか強制力の働く機会はない。
 一ヶ月に一度ほど、金髪の随分背の高い青年が訪ねてくる。看守によればここの管理者だそうだがそれ以上の詳細は知らない。彼はどうやらこの施設を建てた者ではないらしく、つまり管理者たる彼の他にきちんとオーナーがいるようだ。ここは何なのか、なぜ私なのか、尋ねてみたことはあるが芳しい返事は得られなかった。無口な彼は短く息を吐き、さあね、と独り言つだけだった。
 たまに、同居人たちのうちの一人の体が削げる。処置は完璧に施されているが痛みは無論じくじくと残る。肉を切り取るように傷は増え、見えている肌の面積よりも覆う包帯の面積のほうが多くなってきた頃に彼らは姿を消してしまう。理由や、目的を、みんなそれとなく察していて口に出さない。恐ろしくて、言葉にはできない。
「エイプリル」
 端的に名を呼ぶ声がして、私は与えられた部屋の中から応答した。間もなく扉がすっと開いて金髪の彼が現れる。健康診断だろうか? つい先月やったばかりなのに。
「調子はどうだ」彼はすでに初夏の服装である。ここ数日はやけに暖かい。
「上々。多少痛むけど、文句なし」
 私は彼の左の耳朶じだに開けられている穴を見ている。正確にはその穴に嵌まったピアスを。彼の瞳の色によく似たエメラルドグリーンの石。
「そりゃよかった」ためらうようなそぶりを一瞬見せた後、彼は続けた。「ちょっと、時間いいか」
「いいわよ。他にやることもないし」
 ベッドの上で体勢を戻し読んでいた本を閉じてから、立って、服を直す。頭によぎるものがあって私は口を開いた。
「エディ、」
「なんだ」
「私、四月生まれだからエイプリルなの。安直でしょう」
「まあ珍しい名付けではないな」彼は、ネクタイを締め直す。
「来月まで、私、生きているかしら?」
 返事は、なかった。それが答えだった。さだめをそっと飲み込んで、私は部屋を出る彼の後に続く。

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2017/03/30:Tumblrにて発表/ケーキバースパロ。カートはフォーク、アーニーとエディはケーキ。

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