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総理の夫、なぜ原作から結末を変えたのか?【ネタバレ有り】

 思い出したら腹が立ってきた。原田マハ氏の原作小説が好きで、実写化と聞いて喜び勇んで劇場に向かったが、期待を裏切られた。役者さんの演技が良かったからネガティブなレビューは控えようと思ったけれど、頭の中であれこれ批評するうちに悲しみが怒りに変わってきたので、ここで吐き出したい。

※以降はネタバレがあります。

原作は女性総理が妊娠で辞任しない

 「総理の夫」は、日本初の女性首相・相馬凛子(そうま りんこ)の活躍を、夫で鳥類学者の相馬日和(ひより)視点で追う内容だ。小説のほうは日和の私的な日記という体裁を取っており、妻が総理大臣になったことで一変した日々の中、愛妻を支える彼なりの奮闘を追体験できる。

 物語終盤、妊娠が判明した凛子は辞意を固め、記者会見で表明する。しかし、女性を中心とした国民からの熱烈な支持、日和の母である義母からの応援、さらには政敵だった大物政治家からの後押し、なにより日和の優しさを受けて凛子は翻意、相馬夫妻は一緒に困難を乗り越える覚悟を決める。

「『働く女性が子供を産み、育てやすい社会を整備する』。あなたが、選挙の際に国民に約束したことです。それを実践しなければ、それこそあなたは大嘘つきになりますよ」

(原田マハ著『総理の夫 First Gentleman 新版』(実業之日本社) p.442より引用)

 上記は、凛子の辞意撤回の決め手となる義母の一言だ。凛子自身が理想を実現する展開が、原作の締めであった。女性参加が遅々として進まない日本政治の古臭さを、軽妙な筆致で活写した良作である。話が都合良く進みすぎだと感じる人もいるだろうが、私は深刻になりすぎない軽やかさこそ、原田作品の魅力だと考えている。

なんで辞めさせちゃったの?

 映画版では凛子が辞任を表明する直前に、日和が記者会見場に乱入。報道陣前で涙の大演説をぶち上げ、君がどんな決断をしても応援すると伝える。劇場の大音響で長台詞を叫ばれ続けたのがきつかったせいもあるが、いかにも映画的な演出が白々しく感じられた(※演じた田中圭さんに罪はない)。しかし、この流れで原作どおり凛子が辞任を取りやめるかと思いきや、なんと、総理を辞めて日和とともに育児に励む場面に移り変わる。しかも、日和は幼い娘の世話を妻に任せて長期出張に出かけるといい、彼の姿を凛子が笑顔で見送るのだ。なんでこうなった。台無しじゃないか!

 エンドロールを観ていたら脚本こそ女性が入っているけど、製作も演出も監督も見事に男性ばかり。別に男性は女性向けの作品を撮れないなどと言うつもりはないが、こんな結末では企画会議の風景を勘繰ってしまう。いったいどこのタイミングで改悪が決まったのか。「総理が辞意撤回なんてリアリティーがなさすぎるよ~^^」なんて指摘したおじさんがいたのか。あるいは、もう少し深い理由があって「総理大臣だって家庭を優先していい」という提案だったのか。いずれにせよ、大はずれの改変だと思う。フィクションだからこそ、妊娠・出産を経ても総理大臣を続けられる究極の理想形を描けるわけで、そこが本作の醍醐味だったのだ。

 もちろん悪い点ばかりではない。中谷美紀さんと田中圭さんはイメージ通りの相馬凛子と日和を好演されていたし、特に予期せぬ妊娠で混乱する凛子が病室で日和に泣きつく場面には、私も涙を誘われた。ゆえに筋が通らない不思議な結末を嘆かざるを得ない。

 映画化にあたって、文庫本で優に400ページを超える大作を2時間の尺に収めるのは大変だったに違いない。本作に限らず文芸作品の映像化において設定変更は必要な作業であり、原作から換骨奪胎に成功した優れた作品だってたくさんある。残念ながら、映画「総理の夫」はその例には入らない。せめて本筋だけでも、原作に合わせて欲しかった。

※サムネイル画像の出典:Wikipedia commons
キャプション:第28回 東京国際映画祭 オープニングセレモニー 
日付:2015年10月21日, 23:17
原典:Nakatani Miki "Foujita" at Opening Ceremony of the 28th Tokyo International Film Festival
作者:Dick Thomas Johnson from Tokyo, Japan 

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