見出し画像

【エントリーシートに書けなかった、本当の自己分析。】「小さな挫折」から逃げ回って生まれた「大きな失敗」

6月14日。深夜1:48。
にわかに酔っ払っている。
中高、そして大学時代の友人と飲んで帰ってきた。
僕と奴は10年以上の仲、奴にしか話せないような恥ずかしい話も多い。
更に恥ずかしいことに、そんな恥ずかしい話のほとんどは10年以上経った最近になって話せるようになったものばかりだ。

僕の「恥ずかしい話」の内容のほとんどは「カッコ悪い話」だ。
人間的にとても姑息で、弱く、見栄っ張り。そういう自分の本質がありありと出たどーしようもないエピソードばかり。
友人が志望校に落ちた時、励ましよりも何よりもガッツポーズする自分がいたこと(自分も不合格だったので)、社会人1年目の夏に会社の人間関係が嫌すぎてこっそり退職代行を使って退職しようとしたこと、大学1年生の時に落とした教養科目の授業を2年生の再履修でも落とし(この時に単位をとったと嘘をついた)、4年生の時にこっそり一人で履修してようやく取れたこと。1週間で辞めたバイト先のことを「まだ続いてる?」って聞かれて、1週間で辞めたとは何となく言えずに「普通にやってるよ」なんて言ったこともあったか。まだまだ沢山ある。

文章で書けばしょうもないことなんだが、僕はつい最近までこれらのことを10年以上つるんだ友人たちにも隠していた。
僕は異常なまでに「カッコ悪い」ことが好きじゃない見栄っ張りだ。
ただその見栄っ張りはプラスの方向に働かず、ほとんどが「自分の都合の悪い部分を隠そう」というマイナスの方向に働く。情けないことに。

最近になってそういう自分のメッキが剥がれてきたというか、そんなちっぽけな見栄が通用しない世界に入ってきた実感がある。カッコつけだけではどうにもならない実質的な壁だ。そのせいもあって、今一度、冒頭のような自分の過去における「恥ずかしい話(=カッコ悪いと思ってひた隠しにしてきたこと)」をわざと人に話したり、キチンと思い返そうとしている。
今まで貼ってきた「見栄」という24年モノのカサブタ。
その見栄というカサブタを剥がし、自分の弱い部分に目を向けることは、心の膿みを絞り出すような行為。何度も大声をあげそうになる。

多分、というか必ず、人は生きていれば「挫折」にぶつかる。
その挫折は、自分が全身全霊の思いで何かにぶつかり、そして敗れた経験。
それが受験勉強の人もいるだろう、スポーツの大会である人もいるだろう、就職活動の人もいるだろう、仕事での失敗の人もいるだろう。恋愛における人間関係の人もいるかもしれない。
様々なシチュエーションはあれど、何かしらの機会で、人は、自分の全力を投じても打ち破れる状況を経験する。その経験は「二度とこんな思いをしたくない」「次勝つにはどうすればいいんだろう?」ということを思考することにつながり、全力のチャレンジへと繋げる原動力になる。

僕にはこの経験が無い。
というと聞こえは良いけれど、「挫折から逃げてきた」のだ。

「何となくこのままいくと失敗するかも」という予感がしたものに対して、自分が取る行動は「逃げる」か「負けの言い訳を用意する」ことだった

自分自身が負けて悔しい、よりも周りから「アイツは負けた奴」と思われることが死ぬほど嫌だった。負けないために頑張ろう、ではなく負けることがバレないように隠そうor負けても「しょうがないよな」と思ってもらえる言い訳や嘘を用意しよう、という動き方だった。
そっちの方が楽だから。泥臭く、なんてダサすぎる。
何でも最低水準をこなしてるように見せて、都合の悪いところは何が何でも隠す。(周りからそうは見えてなかったと思うけど。)
そんな生き方の23年だった。

これまでの自分の人生は、そんな自分のメンツを保つために屁理屈と火事場の馬鹿力だけで何とかしてきたものだった。

中学時代は所属していた部活で副部長なのにレギュラーが取れず、恥ずかしい思いを隠すために本気で取り組んでいないフリをしたり、何の部活に入っているかを隠したりした。
高校時代は中高一貫の進学校にいたこともあって、友人のほとんどは帰宅部だったことが楽だった。部活に打ち込む風潮は少数派になって、頑張らない自分を正当化できた。なまじっか成績が悪くなかったことも部活組が少数派だった学校で楽に生きることを加速させた。

大学受験はそれまでたいした勉強もしてないのに、センター試験直前の模試の点数がたまたま良かったことにかまけて、本番で大コケした。第1志望なんてとても届く点数ではなく、志望校を落としても大学生になれるかは怪しかった。その時までも考えていたことは、浪人するかもしれないことよりも、(学校や予備校で勉強できるキャラを演じたばっかりに)「あいつ浪人したらしい」と周りに思われることを極度に恐れていた。自分の見栄のカサブタが剥がれることに怯えた。
しかし、幾つかの科目が秀でて良かったこと、受験科目が得意科目だったこともあり、第一志望の大学には落ちたが、後期受験で今の大学に滑り込んだ。

思えばこの時に、「つまらない見栄を張るよりも、自分の弱い部分に向き合い克服しよう。神様がくれたチャンスだ。」と思い、努力するべきだったと思う。
僕はそれをしなかった。
神様がすくい上げてくれた機会でさえ、自分自身の力だと勘違いして、また楽な方へ楽な方へと流れていた。
勉強もろくにせず、いくつも単位を落とし、友人にテストの出来を聞かれれば「できたよ」と見栄を張る。本質は変わらなかった。
サークルに運良く馴染むことができたかと思えば、その場所の居心地の良さに甘えて、将来のことを考えるタイミングから目を背け、自分を肯定してもらえる場所にすがった。

そんな自堕落な大学生活のクライマックスに迎えた就職活動。
大学4年の3月、それまでろくにインターンにもいかず、今や遅すぎると言える解禁日に就活をスタートした。準備不足もあり、思っていたよりも遥かに少ない応募しかできず、そして選考では落ちまくった。
友人と就活トークになっては、「俺もまあまあかな」と虚勢を張った。この時も自分の望む進路に行けるかどうかよりも、「あいつ就職先決まってないらしい」と周りに思われることが嫌だった。
それでも運良く6月には何とか上場企業の内定をもらい、面目を保った。
そこが自分が望んだ場所かどうかなんてどうでも良い。とにかく見栄を守ることができればそれで良かった。

考え直す、自分の弱さに向き合うタイミングはいくらでもあった。
その度に楽な方へ、楽な方へと逃げてきた。
そして今現在、僕は今勤めている会社を辞める。これもまた「逃げ」だと思う。今後の進路についても、今まで自分と向き合うことから逃げてきたツケがきているのか定まりきれていない。

だからこそ僕はそろそろ自分と向き合わないといけない。
世の中は見栄だけでは生きていけない。
「見栄のために都合の悪い部分を隠す弱さ」が今までの失敗を産んだ原因なら、そのちっぽけな見栄をまずは崩して、カサブタを剥がなければいけない。

書き出したときはどういう結論に着地するか見えなかったpostだけれど、結論がつけられそう。

この文章を読んでくれる僕の友人の皆さんにお願いがあります。
僕はこれから昔張った見栄やウソを突然白状するかもしれない。
泣いたり拗ねたり、弱音を吐いたり、弱い自分を今まで以上にさらけ出すと思います。
この歳になって恥ずかしい話だけど、僕の弱さを受け入れてください。許してください。
弱い自分をさらけ出すのはそれだけ信頼している、大事にしたいと思っているからなのです。
多分今までも沢山甘えてきたと思うけれど、もう一度、僕がちゃんとした人間になるために、その懐の深さに甘えさせてください。
そしてつまらない見栄を張っていることがわかったら、叱ってください。

そしてこれは決意。
つまらない見栄や虚勢で、本当に自分がしたいことやしなければいけないことから逃げる人生には終止符を打つ。
自分が本気でしたいことや、立ち向かうべき勝負所で、泥水をすすっても、何度負けても、成し遂げるまで諦めない強さを持った人間になること。

23歳ニート予定。頑張ります。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?