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自己紹介

こんにちは、菅野です。自己紹介を書かせて頂きます。

<プロフィール>
■生まれ:1985年/札幌市西区
■スキル:マーケティング/ロジカルシンキング/マネジメント/不動産(宅建士)/食肉の解体(学生時代のバイトは焼肉一筋)
■愛読書:小説 上杉鷹山〈童門 冬二 著〉/幸福論〈バートランド・ラッセル 著〉/戦争論〈カール・フォン クラウゼヴィッツ 著〉
■尊敬する人:上杉鷹山/ウォルト・ディズニー/両親
■好きな言葉:四象限
■休日の過ごし方:子供と遊ぶ/趣味に没頭(LEGO・ゲーム・映画・漫画..)
■今関心があること:子供の成長/ボルダリング/カタツムリの飼育
■SNS:Twitter: @suganoyuta/Facebook: /suganoyuta/

<本業の経歴に入る前に・・本業以外のお仕事紹介>
兼業でCRM支援の会社経営、B2Bセールス塾の塾長、コラム執筆、イベント登壇など。何かしらのご依頼・ご相談は、TwitterのDMからご遠慮なく連絡ください(@suganoyuta

■百様株式会社 | ファウンダー
2012年に日本国内初の事例となるマーケティングオートメーション導入を主導したことを契機に、2016年、CRM支援の百様株式会社を創業。兼業でファウンダーを務めます。CRMが三度のメシよりとにかく大好きです。

■菅野勇太のB2Bセールス塾 | 塾長
私はB2Bの権威でもなんでもないですが、営業を受けて発注する側の目線で「事業主インサイト」を突く術を、セールスの手法として体系的にカリキュラムに落とし込んで、レクチャーしています。営業職の方、ぜひご参加ください。

■コラム連載
・Agenda note | 企画・執筆
最新のマーケティングテクノロジー動向や、少し高い視点でのマーケティング論を、LIFULL HOME’Sの事例を中心に執筆しています。

また、2021年8月からは、B2Bセールス塾に連動し、「営業現場のリアルな質問」に事業主側の視点から答える形式で、新連載をスタートしました。

・MarkeZine | 企画・執筆
広告主の倫理観を問うテーマで連載執筆しました。現在はお休み中です(またこのテーマで書きたいな)

■取材記事出演(一部)
アドテクやマーケティングオートメーションの活用にまつわる取材モノが中心ですが、それ以外でも楽しい企画ならどんどん出演しています。

■イベント登壇(一部)
得意のマーケティングテクノロジー関連以外にも、「若手のキャリア」「組織と育成」などのテーマで登壇しています。また、大学や地方公務員イベントにも呼んで頂いたりと、一人旅に出るような新鮮な気持ちで登壇することが楽しいです。

<本業の経歴>

生まれてから大学卒業まで札幌で過ごしました。運動・音楽・大人数行事は苦手で、美術・家庭科・ITは得意な学生時代。経営情報を専攻し、インターン先の日本を代表するネット企業にそのまま就職と思いきや、普通に落ちてしまったのと、六本木の輝きが自分には合わなくてダメでした。

そんな中、ネクスト(現LIFULL)に入社を決めて今に至るのですが、この会社の特徴は、「クサい事も真剣に言う。有言実行している。性根がいい人たち」です。駅前にスタバとコメダがあるならば、迷わずコメダ派の私としては、飾らない人情味と営業臭さ(おまけに当時のオフィスは勝どきで磯臭かった..)に魅力を感じて入社したことを覚えています。※注)今のLIFULLはとてもオシャレです。

LIFULLでの13年間は、簡単に分けると4つ。思い切って文字数を気にせずに書いたので、長〜いです。以降の①〜④は読み飛ばして頂いて大丈夫です。

①反応しない新卒

2008年新卒入社。新卒としては初めてのマーケター配属。主幹事業である不動産・住宅情報サイト「LIFULL HOME’S」の新築マンション事業において、SEO・SEM・アフィリエイト広告・アクセス解析などのWEB集客回りを担当。入社から半年後にはリーマンショックがあり、大手の取引先がバタバタと倒産する中、部署内にも暗雲が立ち込め、急速に部署崩壊に向けて転がり落ちました。今振り返っても、圧倒的にカオスだったのはこの時でした。

極めて不安定な情勢、目標は大幅未達、上司は頻繁に入れ替わり、メンバーは団結できず、意見の対立が深刻化していました。それらがまっさらな新卒の自分を揺さぶりました。心配した先輩方が様々なアドバイスをくれましたが、一人一人言っていることが違い過ぎていました。ありがたいことでしたが、なんとなく、逐一反応してはいけないと思っていました。心を閉ざすわけではなく、こっそりと自分一人の世界を作り、自分の時間軸の中で、ひたすら自分を追い込むような働き方をしていました。

私も含め、日本の学生は社会というものについて何も知らないまま社会人になることが多いので、当然、何が正解か分からない。だからこの情勢に対して答えを出すことなど最初から諦めて、ただ目の前の仕事の成果を出すことだけに集中していました。誰かの意見に同調し、嘆いてみても、時間の無駄だからです。それが当時のギスギスした空気を乗り越えるために、自分ができた唯一の行動でもありました。

そんな中、運用型広告の代理店統合プロジェクトが立ち上がり、私にPMの白羽の矢が立ち、そのまま横断系のマーケティング組織に異動。入社から1年半後のことでした。6つの事業部が5つの代理店と個別に取引をしている中で、そのどれでもない別の代理店1社に統合することが既に決まっており、予算をもぎ取られる側の代理店各社と事業部の各担当者からの殺気を矢面で感じながら、連日早朝から深夜までガムシャラに働きました。さすがに突出して目に余る働き方だったので、当時の上長には大変ご迷惑をかけてしまいました。※注)今のLIFULLは超がつくほどホワイトです。

この時期は、とにかく「たくさん働く事」を何かの権利のように主張しながら、自分の世界を作り、ハートをコントロールする術を身につけました。そして、「量は質を生む」という格言を、身をもって、そしてデジタルマーケティングの基礎概念として、2つの意味で体感しました。

②心身崩壊と引き換えに得た国内第一人者のポジション

運用型広告の統合から3年。とにかく最新の広告テクノロジーを貪るように取り入れていました。その一つである「DSP」を国内でも早いタイミングで導入して大きな成果を得られるなど、社内表彰される機会も増えていました。

その一方で、マンネリ化していた自分の業務領域を広げたい思いから、転職も含めて考えていたところ、社内で大きなプロジェクトが立ち上がりました。今で言うDXみたいなもので、複数のプロジェクトで構成されていました。そのうちの一つが「マーケティングオートメーション(MA)」の導入。このプロジェクトをPMとして拝命し、立ち上がった特命チームに異動しました。とても大きな予算を短時間に、しかも不確実性の高い超未来的な取り組みに対して投資できる胆力が、当時の経営陣の「かっこよさ」として、私の記憶に刻まれています。

2012年当時、国内ではまだ輸入前の製品リファレンスを読み漁り、頭をハンマーでどつかれるような衝撃を覚えました。ユーザーをセグメントに分け、ユーザーの行動に応じて条件分岐を設定し、メールの配信コンテンツやタイミングを自動的に出し分ける、そんな夢のようなシナリオ型のコミュニケーションが実現できると言うのです。まさにドラえもんが急に目の前に現れたかのような、とにかくワクワクしたことを覚えています。しかし、そこからの導入と導入後の初期運用までの約10ヶ月間は、私の人生の中でも最も心身ともに限界まで追い詰められる、地獄のような日々となりました。

MAは、ざっくり言うと、①ツールにデータを入れる、②ツールで配信設定する、の2段階でセットアップします。②は代理店さんのサポートもあり、それほど不安はありませんでしたが、①は主に社内マターでした。いまで言う「CDP」を構築しないといけません。当時は「データ集計ファーム」と呼んでいましたが、そんな事例はどこを探してもありません。さらに、このプロジェクトには専任のエンジニアは割り当てられず、社内の技術研究部門に所属する気鋭のエンジニアのリソースを借りていました。あくまで「協力していただく」スタンスでのディレクションは、人から助けてもらうことが苦手だった私にとって、とてつもなく大きな精神的負荷でした。

タフな働き方には慣れていましたが、耳が一時的に聞こえなくなる、激しく気分が落ち込むなど、さすがの私も心身ともに一度壊れてしまいました。そんな中でも、プライドを全て捨てて、真っ裸で土下座するような気持ちで周囲に助けてもらい続けた結果、長いトンネルを抜けて、徐々に成果として報われてきました。複数の社内表彰も頂きました。対外的にも「MAの第一人者」として認知され、MA関連だけで20回以上のイベント登壇や取材対応が発生。私にとっては大きなメディア露出に繋がりました。

③ドベからアワード受賞までのマネジメント遍歴

MA導入がひと段落した直後、当時企画系のマネージャーとしては最年少でマネージャーデビューしました。最初の部門は、メンバーが全員女性、社歴も等級も自分より上、さらに部門のミッションは、私が経験したことのない「コンテンツ編集」でした。この上ない「やりづらさが約束された環境」で、およそマネージャーとしてあり得る全ての失敗をしたのではないかと思います。これは当時の上司達の、私への愛情の証と受け取っています。

あっという間に最初の部門は解散となってしまい、一時的に古巣のデジマ部門のマネージャーになったり、集客ではなくプロダクト開発部門のマネージャーになったりと、社内を転々と異動しました。出口の見えない粉骨砕身の不格好マネジメントが2年ほど続いた頃、私のマネージャーとしての自信のなさを決定づける大きなプロジェクトが立ち上がりました。

詳しくは省きますが、社内からは「5億円をドブに捨てたプロジェクト」「ゴム紐の押し売りのようなプロジェクト」と揶揄されることもありました。責任者として批判の矢面に立たされ、プロジェクトは前進せず、メンバーからの信頼は失墜。努力はしているつもりでしたが、なかなか成果に結びつけることができませんでした。幼少期から、リーダーシップとは無縁の生活をしてきたこともあり、「もうマネジメントは向いてない」と諦めかけていました。

藁をもつかむ気持ちでいたときに出会ったのが、ガンディーの言葉でした。「本当の敵は自分の中にいる。自分の外にうまくいかない理由を生み出すことは、自分の中の敵から目を逸らすことでもある。そうしている間は少しも前進できない。」
何度も自分なりに咀嚼して噛み締めました。そうして、私利を捨て、粘り強くメンバーと向き合い続けることで、状況が好転する手応えを少しずつ感じられるようになりました。最終的にはプロジェクトは一定の成果を挙げたものの、私の手を離れた後に撤退となってしまいました。

LIFULLでは外部ツールを用いて従業員モチベーションを調査していますが、そのスコアが全社最下位からスタートしたのが、OMOの部門でした。店舗で住宅購入の相談ができる無料カウンター「LIFULL HOME'S住まいの窓口」が試験的に立ち上がり、2年ほど経った頃、マーケティングを強化すべく兼務マネージャーとして配属になりました。ハイストレッチな目標を追いがちなのは新規事業あるあるですが、目標との乖離が続き、メンバーの不満は頂点に達してからの着任劇。最初のメンバーからの相談内容は、異動・退職・不仲でした。

「メンバーのモチベーションがどん底」という環境は既に慣れたもので、冷静にひとつひとつやるべきことをやり、1年でモチベーションは全社トップレベルに引き上げることができました。部署としてモチベーションアワードも受賞しています。このチームは本当に良いチームで、その後、しっかりと売上を伸ばし、社長賞も受賞しました。


④本業と兼業と家庭のバランス

③までは2019年までの話。少し遡りますが、2015年に第一子誕生、2016年に起業という出来事があります。第一子が誕生した頃、マネージャーとしての自信が打ち砕かれた時期でもあり、「そんな父の姿は見せたくない」という思いもあって、実は学生の頃から志していた起業に踏み切ります。2名のエンジニアの仲間に声をかけ、ビジネスプランも固め、首尾よく退職、と思いきや・・

私一人だけ退職に失敗してしまいました。一度はOKをもらったものの、ありがたいことにそこからの引き留めが凄まじく、最後は自分なりの仁義を通すと決めて、乗り掛かっていたプロジェクトを成功に終わらせるところまでをコミットすることにしました。その間は、発起人として無報酬で自分の立ち上げた会社に関わり続け、結果的に1年後には約束のプロジェクトも成功しました。これで晴れて退職と思いきや・・

結局現在まで「掛け持ち」が続いています。ちょうど副業解禁の時代の節目で、LIFULLでも兼業がOKとなり、私はその制度を利用して、ファウンダーという形で公明正大に兼業しています。家庭では第二子が生まれ、育児とのバランスもさらに大変ではありますが、在宅勤務の追い風もあり、なんとかバランスを保っている日々です。

ちなみに立ち上げた会社は、「百様(ひゃくよう)」と名付けました。私が得意とするOne to OneマーケティングのB2B支援会社ですが、「ひとりひとりに寄り添う」というマーケティングの手法から転じて、百人百様、百様玲瓏な、誰もが輝ける世界を創っていきたい、そんな願いを込めています。今で言うダイバーシティみたいな感じです。短期的には、やはり自分を成長させてくれたCRM、MAの業界発展に貢献したいです。

本業では、現在ブランディング、デジタル、SNS、OMO、CRM、出版編集といった分野まで、幅広い範囲を統括させてもらっています。これからやりたいことは、今までと引き続きになりますが、LIFULL HOME'Sの事業成長そのものへのコミット。そして、とにかく後継育成。この自己紹介を書く前に公開したnote最初の記事も、育成をテーマにしたものでした。

LIFULLでは「マーケター職種長」というもう一つの肩書があり、社内大学(LIFULL MARKETING SCHOOL)を作ったり、マーケティングの知見を発信する専門の公式noteをメンバー育成を兼ねて作りました。もし良かったらそちらのnoteも覗いてみてください。


なぜ、noteを書くのか

私の社外に向けた活動の中で、ターニングポイントとなった出来事が2つあります。メディアへの寄稿と、外部イベントへの登壇です。

一つ目は、Agenda noteさんへの寄稿連載の最初の記事。記事を書くことはこれが初めてでしたが、私の想像以上の大きな反響がありました。

CRMというテーマは、私のキャリアにおいて大きな意味を持ち、今後も業界の健全な発展に寄与していきたいという強い思いがある分、自分の考えや気持ちに正直でありたいと思っていました。

その思いが、見る角度や一部を切り取られることによって、「業界を否定している」と誤解され、業界関係者で炎上するのではないかという恐怖はありました。

しかし実際はその逆でした。自分のネガティブな側面や、コンプレックスさえも曝け出すことになったとしても、自分の気持ちを正直に外に出したこと自体が肯定される。こんなに嬉しいことはありません。

個人的な感情の吐露

これは人を不快にさせることもあれば、称賛されることもあります。その感情の根っこにある思いが、世の中を良くしたい真っ直ぐな気持ちであれば、肯定されるべきものだということを知りました。「表に出してもいいんだ」と思いました。

もう一つは、私が初めて大規模なイベントのカウンシルメンバーとして、モデレーターを務めたセッションです。

このセッションは、「マーケティングのあり方を“脱構築”する」という、なんとも挑戦的なタイトルでした。事務局と話しながら私が決めたものでしたが、後になって泣きそうなほど後悔したことを覚えています。

PDCA
AISAS
カスタマージャーニー


当たり前のように信じられている常識を疑うことが、このセッションの主題でした。それは偉大な先人の知恵と真っ向から対立することでもあります。一歩間違えば、会場全体を険悪なムードにさせてしまう可能性もあります。

しかし、そこに大義はありました。自分たち若い世代から、しっかりと声を上げなければならない。そんな問題意識は確かにありました。守破離でいう「離」の宣言をしなければなりません。

マーケティングの方法論に絶対はない。
過去の成功事例を盲目的に崇拝し、追いかけるだけでなく、そこに錯覚や呪縛が潜んでいないか目を光らせ、固定観念から解放されるべき。

当時のイベントにて、会場へのメッセージ

そのために必要なスキルや心構えについて、生意気にもメッセージとして伝えさせて頂きました。

結果的には、私よりも遥かに素晴らしい同世代のスピーカーに恵まれたおかげで、セッションは大成功。会場の大先輩方から拍手を頂き、「苦しんだ甲斐があった」と胸を撫で下ろしました。

人生初モデレーターミッション完了! オーディエンスの方から「猛獣使い」という新たな肩書きを戴きましたw いい感じにスピーカーの方に暴れて頂いて、救われました。裏で最強のセッションがある中で、「それを蹴ってこっちに来てよかった」と徳力さんに言って頂けたことが最高に嬉しかった〜。 でも、このプレッシャーはしばらくはもういいかな・・! 関係者の皆様、ありがとうございました!

Posted by 菅野 勇太 on Friday, September 27, 2019

・自分の気持ちに正直に、個人的な感情を吐露した記事
・大義や使命感を胸に、勇気を持って挑んだイベント

この2つの機会は、「自分が心から正しいと思うことは、批判を恐れず発信することで、誰かの役に立つことができる」ということを、私に教えてくれました。

今までの機会は、たまたま運良く巡ってきたものです。これからは、受け身ではなく、自ら積極的に発信していきたいと思います。それがnoteを書こうと思ったきっかけです。

これからどんなnoteを書いていくか

自分の実体験から得たマーケティングの知見や仕事術などを書いていきたいと思います。

私の強みは、知識を体系化することです。書くことによって、自分の中で整理されていなかった知識を体系化し、自分の中にストックしていくことができれば。そしてそれが誰かの役に立てばいいなと思っています。

最後までお読みいただきまして、どうもありがとうございました。今後も不定期で記事を投稿をしていきますので、スキ・フォロー・シェアなどを頂けますと、ものすごく喜びます!今後ともよろしくお願いいたします。

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