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言葉と本を重ねる書簡~『手紙、栞を添えて』から始まる手紙~

拝啓

気づけば紫陽花が咲き始め、もう間もなく雨の季節を迎えるこの頃。朝晩肌寒い日々が続きますね。いかがお過ごしでしょうか。

前回頂きましたお返事、大変嬉しく拝読しました。『雪とパイナップル』のみならず、私が大切にしている作品『オメラスから歩み去る人々』まで読んで頂けたこと、恐縮です。

 今回あなたからご紹介頂きました3冊の本、どれも素晴らしかったです。

ジル・ボムの『そらいろ男爵』の中で詩人が生えてきたくだりは思わず声を上げて笑いました。トルストイの『戦争と平和』を敵陣へ落とした男爵の機転はなかなかですね。『戦争と平和』の中で私が最も好きなのは、アンドレイ・ボルコンスキーが戦場で倒れた際に青い空を見て自分の過ちを知る、あの場面です。映画『千と千尋の神隠し』の主題歌『いつも何度でも』の「繰り返す過ちのそのたび人はただ青い空の青さを知る」という一節そのものであり、文学とはどこまでも普遍的であることを思い出しました。150年を経ても読み継がれる作品は、敵の隊長の胸にも届いたのでしょう。目を真っ赤にして夜通し読ませてしまうほどに。
そして最後、手紙を投下して終戦となる場面は胸を打たれました。誰かを思い書いた手紙は、読む人の心を動かす。最初にご紹介頂いた『手紙、栞を添えて』にも通じる絵本でした。

『手紙、栞を添えて』は、文学に精通した小説家のお二人の、文学への敬意と愛を通奏低音としたやり取りですね。水村さんがなぜ面識のないまま書簡を交わしたいと思ったのか。読み終えて、その理由がよく分かりました。手紙という形式をとりながらどこまでも純粋に、真摯に、本を読むことの幸せを語り、それを分かち合う。この語らいは対面では不可能です。面識がなく先入観もないからこそ、読書体験という非常に私的な一面を互いに忌憚なく打ち明けることができる。縦横無尽に登場する文学作品たち――『若草物語』、『ジェーン・エア』、『浮雲』、『エチカ』、『罪と罰』、『マルテの手記』、『オイディプス王』etc.に対する深い理解。そして、自身の経験を織り交ぜながら作品たちを紐解いてゆく見事な筆致。本を机に置く暇もなく読み進める読書は久々でした。「次はぜひこの作品を読もう」、「ああ、これは積読の中の一冊だ」等々、読みたい本が次々に溢れる一冊でもありました。このような、生涯傍に置きたい本に巡り合わせて頂けたこと、そして今こうして往復書簡のやり取りをして頂けること、なんと豊かな時間でしょう。改めて感謝申し上げます。

 前回のお手紙の中で印象深かったのが「人生とは言葉そのもの」というお言葉です。池田晶子さんの『言葉を生きる』の第4章の中に、頂いた言葉を見つけました。私が日頃感じていることを端的に言葉で象られていて、さすが哲学者だと感嘆し、また、この言葉を私に贈ってくださったあなたの見識の深さに感動した次第です。「あらゆる表現は自画像である」というお言葉は、短歌をつくる人間として心得ておかなければならないと背筋を正される思いでした。同時にそのお言葉から思い出した本があります。染織家の志村ふくみさんが書いた『一色一生』です。

植物から糸を染め、機を用いて織り上げることを生業とする志村さんの文章は、一言で表すと馥郁です。リルケを愛読されていることもあり、どこまでも端正で凛としていて、読むほどに身が清められる心地がします。『手紙、栞を添えて』の中で水村さんがハイスクール時代儀式のように年に1回は読み返した本について語っていましたね。私にとっては『一色一生』がそれに当たります。ちょうど今の時期、桜が終わり新緑が目に眩しい頃に、決まって読み返すのです。
初めて『一色一生』を読んだのは大学時代でした。志村さんの藍への熱意に憧れ、私も藍染をしたことがあります。もちろん体験ですので藍を建てる仕事からではなく、布の染色のみでしたが、今でも本を開くたびに思い出します。ふつふつと匂い立つ藍の、ひんやりと静謐な手触りを。
「本当のものは、見えるものの奥にあって、物や形にとどめておくことの出来ない領域のもの、海や空の青さもまたそういう聖域のものなのでしょう。この地球上に最も広大な領域を占める青と緑を直接に染めだすことが出来ないとしたら、自然のどこにその色を染め出すことのできるものがひそんでいるのでしょう。」(『一色一生 色と糸と織りと』より)
言葉は、目には見えません。そんな言葉を私たちは日々自らの心で染め、思索という機で織り上げています。言葉が己の自画像であるなら、願わくば、私が染めて織り上げる言葉はいつも凛とした藍色でありたい。あなたから教えて頂いた本たちを読みながら、そんなことを考えていました。

あなたとの往復書簡が始まってから、私にとって言葉とは何か、また文学とは何かを問う時間が増えました。近頃、''惑溺的読書''ができなくなっているなぁとも。何かを得ること・学ぶことばかりが先行して、純粋な快楽として読む行為ができにくくなってしまっているのです。これでは、いけませんね。『手紙、栞を添えて』を教えて頂いた今、肩の力を抜いて、読むことの楽しさを思い出しています。

もしよろしければ、あなたが子どもの頃、''読書の祝祭''で親しんだ本について教えて頂けませんか? どんな本でもかまいません。食事も忘れ、ひたすら部屋に閉じ籠り、気づけば夕暮れになっていた頃手に持っていた本について、そうっと教えてくださいませ。

風の涼しい夕暮れ時に

2023年5月24日 菅野 紫 拝

『手紙、栞を添えて』(辻邦夫、水村美苗 著)
『一色一生』(志村ふくみ 著)

この手紙は既視の海様との往復書簡をもとに書いています。

言葉の力を信じる——ジル・ボム『そらいろ男爵』、鎌田實『雪とパイナップル』、アーシュラ・K・ル・グィン『オメラスから歩み去る人々』【書評】|既視の海
https://note.com/dejavudelmar/n/n996e4efad245

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