論文と書籍を読んだら
本格的に卒業論文の作成に取り組んでみようと思ってから2ヶ月ぐらい経ったかな。
今までの状況を一応報告すると、2月まで一人で何とか調べて研究計画書を書き、ゼミの先生にメールで送った。ほぼ私の個人的な意見を書いたばかりの、無意味に長い計画書だったため、先生にすごい指摘されるのではないかと思ったが、意外と東大にも行けそうという良い評価をもらった。もちろん、私を励ますために言ったことかもしれないが、とにかくその言葉のおかげで自信を持って取り組めたのは事実である。3月半ばぐらいには章を立て、第一章を書いて先生に送ってみた。それは本当に卒業論文作成の第一歩であったため、先生から様々な問題点を指摘してもらった。その中でも一番大事だったのは、やはり独創性の欠如。先生の教えてくれた問題点を解決していくために、また大学院進学に向かっての知識を得るために、暫くは論文作成を止めて、他の研究者たちが書いた論文と書籍をたくさん読み始めた。
正直、大学を3年間通ったけど、私の日本語の読解力は大学に入学した頃とあまり変わっていない。日本語を読み書きすることは、私にとってはまだ面倒くさいことである。右から左に読むという方向も慣れないし、縦書きを読む時はいつも間違えて一行を飛ばして読んでしまったりする。おかげて翻訳機を思う存分使いながら大学生活を送った。ライティングもまた、最初から日本語で文を書くよりは、やはり私の母国語である韓国語で先に文を書いてから、それを日本語に翻訳した方が、読みやすいレポートを早く完成させることができたため、日本語での作文能力が身についたというよりは、翻訳能力が身についたと言った方が正確かもしれない。
しかし、ワードファイルではなく、ただの紙媒体になっている論文や本を大量に翻訳機で読もうとするのには、限界があった。量が多くて私がただ読んだ方が早いのもあったが、何よりも正確性があまりにも落ちていた。こんなにたくさんの日本語の文字を読むことは人生初めてかもしれない。
私がこの間読んできた論文や書籍は主に、言文一致、文学の語り、一人称語りをテーマにしている。文芸創作とどうしても関連付けたいという気持ちで、一生懸命読んだ。それらを読みながらどんどん頭の中に浮かんできたのは、意外にも「文学の在り方」であった。
小説と詩を書き始めてから、いつも気になった。
良い文学って何だろうと。
小説や詩の先生に指摘される度に、正直何でこう書くのは間違いで、そう書かなきゃいけないのか、よく納得がいかなかった。
先生たちは私たちに一体どんな文学を教えたがっているんだろう。先生たちはどんな文学が良い文学だと思っているんだろう。
それがずっと聞けなかったのは、多分私自信もどんな文学が書きたいのかはっきりしていなかったためだと思う。
文学に興味がある人たちは、おそらく皆自分自身に大きな関心を持っている人たちだと思う。
森鴎外の有名な作品、『舞姫』は彼のドイツでの実際の経験を反映しているとよく知られている。鴎外がドイツで留学をしていた時、恋愛をした女性が実際に存在し、森鴎外に付いて日本に入国したことがあるが、すぐ帰国したと。
当時の日本社会は今とは状況が完全に違っていたという。今は職業も比較的自由に選べ、好きな人と恋愛をしたり、結婚をしたりできるが、鴎外が生きていた当時はそうでなかった。森鴎外が医者となったのは、彼の家が代々に医学に勤めてきたためであり、ドイツで留学したのも完全な彼の意思ではなく、結婚も家から決められた人としかできなかった。鴎外はなるべく、国の、家族の期待に応えようと頑張ったが、時代は急変していたため、やってきたこととは違うことを新しくしなければならないことも多く、混乱な感情を抱いていただろうと思う。
そんな社会の中で、鴎外は「自分は何がしたいのか」「自分は今どんな感情を感じているのか」を思っていた。そして『舞姫』をはじめとする多様な作品を書く。
書いたら、自分が見えてくるから。
人に読ませたら、自分を分かってもらえるから。
似たような経験は私にもある。
高校1年生の時、私は「鯨の目」という小説を書き、その当時私を指導していた小説家の先生にすごく褒められた。文学大会で受賞し、賞金も結構もらい、ラジオにも青少年作家として出演した記憶がある。しかし、それ以来全く良い小説が書けず、4年ぐらいの時間が経った。
その間私は高校を辞めてしまった。1年間はほぼ引きこもり状態で、2年間は勉強をした。やっと日本の大学に受かったと思ったらコロナが流行ってしまい、韓国でもう1年過ごした。
引きこもりになっていた最初の1年は辛かった。何も目標がなくて、何もしなくても時間が過ぎていった。次の年は午前4時から午後の10時まで勉強をした。体は疲れていたけど、家でずっとゴロゴロしているよりは、何の考えもしなくなり、精神的にはどんどん健康になってきた。その調子にあまりにもなってしまい、3年目にはソウルで一人暮らしをしながら勉強ばかりした。忙しくなったら、何の心配もしなくなり、憂鬱な気持ちも全部なくなっていった。それで小説も書かなかった。そんなのを書く時間がなかったから。
人は、しなければいけないことを、何の疑問も持たずにただやっていると、自分自身についての興味がなくなってしまう。
大学に合格してから、忙しくない日々を送り、私はふと私の祖母のことを思い出した。
祖母は1950年代、韓国戦争の時に生まれた。10代の若い時、顔も見たことない男と結婚し、4人の娘を産んだ。その男はアルコール中毒になり、お金も稼がず、家族に暴力を振るっていた。男はアルコールのせいで、肝癌になり、早く亡くなってしまう。祖母は前触れもなく、4人の娘を一人で育てることになった。そのため、長女を中学校だけ卒業させ、会社で働かせた。長女は会社で様々な悪い目に遭い、高校に通っている友達を羨ましく思っていた。長女にもバレーがしたいという夢があったが、祖母にはそういう長女を慰める時間がなかった。
祖母は、「辛くなかったの?悲しくなかったの?」という私の質問にいつも「他の人も皆そうだった」と答えていた。
同じく、会社で働きながら夜間高校を卒業した長女も、将来私の母になり、「その時代は、皆そうだったよ」と言う。
私はお母さんとおばあちゃんの感情について聞いたが、なぜか二人とも、「皆」「他の人」「時代」の話をする。生きることばかり考えて生きてきたため、もう自分のことを考える暇がなかったのである。
生死の問題を目の前にして、自分がどんな人なのかなんかはどうでもいい問題である。
お母さん、おばあちゃんとは違うが、私も大学入試を勉強する時は、自分なんかどうでも良かった。毎日適当なご飯を食べて勉強をするだけだったから、ある意味では楽な生活だったかもしれない。
久しぶりに会ったカウンセラーは「最近はどうですか」と過去と同じ質問をしたりしていたが、もう私には「普通でした」という答えしか残っていなかった。
カウンセラーは私の感情はなくなっていないと言った。日記でも何でも良いからもう一度文を書いて見せてくださいと。
それで図書館に行って小説を書いた。
最初の文は「私には不思議で神秘的な妹がいる」。
なぜかその文章を書いてから、語り手の「私」がナナという妹を死ぬほどいじめて、殺そうとして、結局自分を止めようとする父を殺してしまう内容の小説を書いてしまった。200文字の原稿用紙80枚。一日で短編小説が終わった。タイトルは「裸のナナ」だった。
恥ずかしくてカウンセラーには見せれなかったが、小説家の先生に送ってみた。先生は、「やっと良いものが書けたんだ」と言った。必ずすぐ登壇できると、新人賞や文学賞をお勧めしてくれた。
しかし、私は「裸のナナ」をどこにも出せなかった。自分がなぜそのような小説を書いたかがよく分からなかったからであった。
それから3年が経った今、私は「裸のナナ」をある文学賞に応募した。
何日か前、小説を書こうと思って、また取り組んでみたら良いものが書けそうになっていた。不思議なことに、その小説は、書いてみたら実は、ナナの話であった。ナナは相変わらず自分を殺せなかった姉と一緒に暮らしていた。自分が理由もなく、姉を含めた多くの人から無差別的な愛をもらい、無差別的な嫌悪ももらっているということをナナは知っていた。一日中海辺で泣いてしまうほど、どうしようもない他人の感情に傷付くこともあるが、ナナは忘れようとする。泣いている自分を見つけてくれる姉を待ちながら。それでも相変わらず、自分を愛してくれる存在が必要だから。人の愛を奪って生きていく化け物だと言われても、愛が欲しいから。
書いてから分かった。「裸のナナ」を書いていた時、私がどんな気持ちだったのか。
もちろん今読んでみたら、「裸のナナ」は幼稚な文章ばかりの変な小説だった。
それでも出した。やっと分かったから。
そしてそれを、他人にも分かってもらいたいから。
文学を読んで、研究をする人々も結局は同じである。
ある人の全てが知りたいのである。その人の人生から、瞬間の感情まで全部。
そしてそれを通じて、自分について分かっていきたい欲望が、どうしても存在している。
書きたいことを一生懸命書くこと。
「文学の在り方」とか余計格好いい言葉を使ってみたくて、意味も分からず書いたが、私が辿り着いた答えはそれで終わりである。
もちろん全ての作家が自分のことを書くわけではないけど、とにかく作品には作家の「意志」が必ず込められるから。
生きるのだけで精一杯な時、自分について考える時間もない時、自分自身はどんな人なのか気になる時、細かい感情や考えを逃してきたと思われる時。
そういう時に読んでほしい記録を書きたい。
大事なのは、その「意志」をどうすれば効率的に伝えられるか、である。
有名な文学者たちは、それがどんな「意志」であろうと、一応大衆に向かって見事に伝えることに成功した。
ここでまた、文芸創作という分野が出てくる。
仕方がない。私が一番知りたいのはそれしかない。
これからの研究は、文学者たちが「どう書いたのか」により集中していきたい。
ファイトーファイトー頑張ろーおおお
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