お菓子の歴史と俗説について~ザッハトルテの起源に関する諸説~
・前書き
ついこの前春が来て快適な天候だな~と思ったらすぐ連日の雨と湿気、それに伴う耐え難い蒸し暑さに襲われ、筆者はここ数日鬱々としてしまっておりますが、本文をお読みの皆さまはお元気でしょうか?
疲れた時や、なんだか憂鬱な時は甘いものを食べてリフレッシュしよう!と甘党の私などは何かにかこつけては甘いものを食べる免罪符としているのですが(笑)、そんな元気の源であるお菓子に関したとある記事を先日ネットニュースで見かけて少し思うところがあったので、今回はその事に関するお話をしてまいりたいと思います。
1.ザッハトルテの起源に関する某記事
私が先日Tw◯tterでなんか面白そうな話題はないかとトレンドを見ていた時にとある記事が目に入りました。その記事はこんな感じの見出し文で書かれていました。
「ザッハトルテは1832年に当時16歳の学生がオーストリア宰相メッテルニヒに命じられて創作したものだった!」
いかがでしょうか?とてもセンセーショナルなインパクトのある見出しですよね笑
この見出しを見た人は、「え?あのウィーンの銘菓ザッハトルテって学生が創ったものだったの?ちょっと話気になるから記事見てみるか...」と、まぁここまでスムーズにはいかないかも知れませんが(笑)多少なりとも興味はお持ちになられたんじゃないでしょうか?
実際おすすめトレンドに上がってた位なので、一定以上の反響はあったものと思われますし、リプ欄なんかを見てみると「ザッハトルテ好きですが、この話は初めて知りました!」とか「100年たっても愛される銘菓を生み出した16歳すごい!」みたいな反応がたくさん寄せられていました。
それで、今回なんでこの記事の話を持ち出しのかというと、この16歳の少年...若き日のフランツ・ザッハ氏が1832年にザッハトルテを創作したという話はお菓子の歴史や雑談が好きな人なら一度は聞いたことのある有名な話ですし、記事の中でも史実のように扱われているのですが、その真実性については実はかなり疑問があるからなのです。
「え?仮にも大手のオンラインメディアが書いてる歴史系の記事なんだからその辺はちゃんと考証してるでしょ!素人は黙っとれ!」と、おっしゃる方も居るかもしれませんが(笑)、今からザッハトルテに関する歴史と諸説、そしてその根拠について語らせていただきたいと思います!
※ただ、書いてると中々の文量になってしまったので『時間ないし結論だけ見たい!』という人は3章の最後の方まで読み飛ばして頂いても問題ありません(笑)、もちろん2章3章ときっちり読み進めて頂いた方が内容がよりよく分かると思いますので、お時間が許すようであれば是非ザッハトルテの歴史に関する諸説等を見て行ってください!
2.ザッハトルテの歴史と菓子にまつわる諸説
まず、ザッハトルテはパリと並ぶ洋菓子の宝庫と言っても差し支えない文化都市ウィーンの銘菓であることは皆様ご存じの事かと思います。
世界中のチョコレート菓子の中でもっとも有名な菓子の一つであるザッハトルテは、重厚なチョコレート・スポンジを濃厚な味のチョコレート・グレージングで覆っただけの極めてシンプルなお菓子です。
生クリームなどを使用した菓子とは違い保存性が高く、その為長距離輸送が可能という特性から海外への輸出も盛んに行われ、また数百年に渡りヨーロッパ全土に絶大な影響を及ぼした名家中の名家ハプスブルク家の帝都としてヨーロッパ中から人の集まった国際都市ウィーンにおいて販売されていたという事情も相まって、現在に至るまで長らく世界各地に多くの強力なファンを有していることは、少しでも洋菓子に興味のある方にならお分かり頂けるのではないかと思います。
そんな超有名菓子ザッハトルテには、やはりというか有名菓子にはつきものの数多くの真偽不確かなエピソードがまとわりついています。
その中でもいくつかバリエーションのある誕生秘話には、まるで伝説や小説の領域のようなものが数多くあります。例えばある料理辞典に収録された説明にこんなものがあります。
『ザッハトルテ。有名なウィーンの菓子で、メッテルニヒ宰相の製菓長であったフランツ・ザッハがウィーン会議(1814~1815)に際して創作。』
この説明文、一見するとまともなものに見えるんですが、フランツ・ザッハ氏のプロフィールを調べればきっと失笑せずにはいられないでしょう。何せ、彼が産まれたのは1816年12月19日、つまりウィーン会議よりも1~2年ほどあとの事なのです...!
いかなる天才と言えども生まれる前からチョコレートを溶かし、スポンジを焼き上げてお菓子を作るなんてマネはできないでしょう(笑)
次に、オックスフォード大学出版局から出版されている『The Oxford Companion to Food』(1999)の説明にはこう書かれています。
『ザッハトルテ。有名なオーストリアの菓子で、ドイツ語圏諸国において祝祭に際して食べられる。これを最初に作ったのはメッテルニヒ宰相の料理長であったフランツ・ザッハで、1832年の事である。』
はい、出ましたね1832年説!上述の記事にも書いてあったやつです!実際この説は現代における定説にされているといって良いでしょう!書籍でもWebでもザッハトルテに関する資料の多くがこの説に似たり寄ったりの説明をしています。
例を挙げるなら「まぁ、16歳の少年が料理長というのは些か無理があるだろう」という考えの著者であれば『料理長』の部分を『料理長の下で働く若手料理人』などといった風にアレンジしたりしているといった感じです。
しかし多くの人が、フランツ・ザッハが「1832年」に創作したのだという点は動かしがたい確固たる事実だと言わんばかりに主張しているのです。
しかし、冷静になって考えてみてください。この話が本当だとしたら、記事の見出し文にも書かれていたように、たかだか16歳の少年が当時ヨーロッパの有力な一国の宰相であったメッテルニヒの料理長という重責を務めていた...あるいは少なくともメッテルニヒに依頼されて重要な仕事(客人をもてなす特製の菓子の創作)をこなしたという事になりますが、そのような事が現実的にあり得ると言えますか?普通に考えればあり得ないですよね?(これ現代風に例えるなら高校二年生の男の子がヨーロッパの有力な国...例えばドイツの大統領に頼まれて各国の首脳たちを楽しませるためのデザートを創作しなさい!って言われてその後世界中でバカ売れする素晴らしい商品を作りました!っていう様なもんですからね...それなんてラノベ?)
3.1832年創作説があり得ないと考えられる理由
しかし、これでは憶測による批判に過ぎないので少し視点を変えて、そもそも1832年説は何を根拠に出されたものなのか、という事について触れておきたいと思います。
根拠とされるのは1888年の日付があるエデュアルト・ザッハ氏(フランツ氏の息子)が書いたされる手紙だそうです。内容は次の通り。
『ザッハトルテは私のいまだ存命中の父が創作したものです。父はそのお菓子を、彼が料理技術のすべてを獲得した老メッテルニヒ公の厨房で作り出しました。今から56年前に食卓に供したとき、それは参列者の賞賛の的となり、父は公より大いにたたえられることになったのです。』
―なるほど、これを読む限りフランツ・ザッハ氏が1888年の56年前、すなわち1832年にメッテルニヒの食卓に供すためにザッハトルテを捜索したことは疑う余地がないように見えますね。
しかしその一方で、マイケル・クロンドル氏の著作『Sweet Invention: A History of Dessert』(2011)の中で、この根拠には大いに疑問があると指摘されているのです!以下彼の論証を見てみましょう
『...1906年12月20日付の「新ウィーン日報(Neuen Wiener Tagblatt)」紙にはフランツ・ザッハ氏の90歳の誕生日を記念して彼のインタビュー記事が掲載されている。その中でフランツはザッハトルテに触れ、それを創作したのは1840年代の終わり頃だったと示唆している...』
ん?1840年代終わりに作った?という事は...30前後のおじさ...もとい、お兄さんじゃん!という事になります。
実際、フランツ氏は長期にわたってブラティスラバやブダペストなど国外の都市に留まり、ウィーンに帰ったのは1848年の事だそうなので、彼がインタビューで語った1840年代の終わりにザッハトルテを創作したというのは、彼のキャリアから考えても大いにあり得ることのように思えますよね!(少なくとも16歳の少年がメッテルニヒ宰相に命じられて創ったという話よりはるかに整合性があると考えられます。)
しかも繰り返しになりますが、1840年代後半説は本人がインタビューで答えた年代であり、その記録も残っているのですからかなり信ぴょう性が高い情報と言えます。
では、そうなると前述した1888年の息子エデュアルトの手紙とそこから導き出される1832年説は一体何なのか?という疑問が沸き上がってきますよね?
これに関してもクロンドル氏が重要な指摘をしています。以下要約して説明するとその内容はこうです。
『この手紙は「ウィーン時報」という政府広報誌の1885年5月号掲載コラムに対応して書かれたとされている。そのコラムではウィーン名産料理が数多く紹介されているが、そこでザッハトルテが無視されていたので、エデュアルトはそれが我慢ならなかった(ので手紙に書いたそうだ)。この点ではおかしな部分はない...ただ奇妙なのは、「ウィーン時報」の1885年5月号にも4月号にも、さらには6月号にも、どこにもそんなコラムは見当たらず、それどころかエデュアルトが書いたとされる当の手紙の現物がこれまで一切確認されていないという事である。』
...いや、結局証拠ないんかーい!(笑)とツッコミたくなりますが、少なくとも現時点では、当時16歳のフランツ・ザッハ氏によってザッハトルテが創られたという1832年説を根拠づける有力な文献・証拠は存在していないと言わざるを得ないと思われます。
...因みにこの1832年説が登場した経緯としては、クロンドル氏も著書で指摘しているが、エデュアルト氏が自身が経営するホテル・ザッハの宣伝のために、看板メニューであったザッハトルテにブランド力を付けるために作り出したプロパガンダではないか?という説が推察されます。この推察が的を射たものかどうかは分かりませんが、結果としてエデュアルト氏はザッハトルテの名を世界に知らしめ、それに伴いホテル・ザッハの経営を軌道に乗せて成功したというのは事実でしょう。
...ここで皆さんの中には『では、なぜ根拠のないこの説が、本人のインタビュー時の言及という信憑性の高い情報よりも人々に認識されることになったのか?』という疑問を持った方も居らっしゃると思いますので、それに対する私の回答も含めた本文の結論を申し上げたいと思います!
4.結論:やっぱり人間は真実より嘘が好き
なんだかありきたりな結論だなぁと思う方も多いと思いますが、私も自分で書いててそう思いました(笑)
でも今回の話を通じて再認識したのは、当たり前かもしれないけど、やっぱり一般的に人って面白みのない真実よりも脚色されたストーリーの方が好きなんですよね。
多分、メディア論とか研究されてる方とか、日常的に仕事として文章を書いてそれで生計を立ててる人には身に染みた常識だと思うんですけど、今回の事を通じて強くそれを感じましたね...まぁ自分自身も「30前後のおじさんがこのお菓子を創りました!」って言われるより「16歳の天才少年が創りました!」と言われた方が絶対に面白いですし、話の続きを読もうとしますもん!(笑)
また、今回はたまたま『ザッハトルテの歴史』という話でこういう事に気づきましたけど、お菓子の歴史にはこういう話がつきものですし、それ自体を悪として言い切ることは簡単にはできません。
なぜならやはり、嘘か真実かわからない魅力的なストーリーが付与されてる方が一般受けしますし、お菓子好きな人たち(少なくとも私は)だって本心を言えばそういう話を聞いて妄想しながらお菓子を食べるのが好きであるだろうからです(笑)。
確かにお菓子の歴史を学術的に捉えて、体系的にまとめようという場合には面白さやロマンより優先すべきは客観的情報に基づいたより信憑性の高い推論・結論でしょう。
しかし、あくまで楽しむために・お菓子をより多くの人に美味しく味わってもらうためというならば、下手な真実よりも洗練された脚色に基づくストーリーの方が効果的と言わざるを得ません。
もちろん、あまりに度が過ぎるとすればそれはそのお菓子を創作した人や、伝承してきた人々に対して失礼に当たるので許されるべきではないと思いますが、証拠が乏しく諸説ある中でどれが明確な事実かは分からない...という状況であり、それがその菓子の発展に繋がるのであれば多少信憑性にかけようと、文末に「※諸説あり」の表記を添えていれば、功罪として許されてもいいのではないのか?というのが私の基本的な考えですので、ザッハトルテの宣伝に寄与し、現代でも世界中であの美味しいお菓子を食べられるようにしてくれたエデュアルト氏を個人的には中々責める気になれません(笑)
勿論この功罪という考え方の正否にも※諸説あり、ではありますが...(苦笑)
ここまで長らくお読みいただきありがとうございました!
また何か書きたいお話を思いついたらNOTEに投稿したいと思いますのでよろしくお願いします!
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