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生まれなおす -善百合子を抱きしめる-

この記事は今年の夏に書いてひととき公開していたものの身内の生き死にに触れる内容のためにSNSに固定して置くことに躊躇いがあったので一度取り下げた。
3ヶ月程経過して客観視すると、書かれている内容はありふれた生と死であり、そもそもわたしの親族はnoteというプラットフォームを知らないだろう。
軋轢は生まれそうにないと判断したので再掲することにした。

以下本文。

生まれること、生まれないこと。

今夏に読んだ、川上未映子著「夏物語」。
自分の子供が欲しい40間近の小説家・夏目夏子が子供の出生について考える話である。

この世界は生まれるに値するものなのか。

そういう問いについて考えるための筋肉を備えたかったわたしは、この本の評判を見てとにかく読んでみようと手にとった。

善百合子ぜんゆりこは、作中に登場するAIDで生まれた女性の名前である。
AIDとは、第三者から提供された精子を子宮内に注入して妊娠を図る、非配偶者間人口受精(Artificial Insemination by Donor)の略称である。
彼女は遺伝上の父親を知らず、義理の父親から性的虐待を受けて育った。
そして自分と同じくAIDによってこの世に生まれた、逢沢潤あいざわじゅんという名前の恋人がいる。

この物語の登場人物は、ほぼ全員が、己の痛みや強張りを自覚している人々である。
なかでも善百合子は血や家族といった、帰属意識が育つにはすべてが希薄な生歴で、空洞のような人だと思った。虚空が女性の形をしているようで、希薄であるが故の異質さがあり、作中の人物の中で最もこの人の言葉に耳を傾けたかった。

物語の終盤、夏子に向かい、寡黙な善百合子がその胸の内を話す静かな場面がある。
そのひとつひとつの言葉は、私が抱いていた、言葉にならない違和を丁寧に解体したようなものであり、また、わだかまりを融解していくようでもあった。

 
 高校生くらいまでは、いつか私も誰かと結婚して誰かの母になると漠然と思い、そのことを当然の未来として受け止めていた。
しかしいつしか、人が人を産むことの何がおめでたいのかと、リアルでは言いづらい疑問を抱くようになった。
というのは、自分が生きていく上でぶち当たる誰かの生死の重さに耐えられない時があるから。

 わたしの親族全員が愛してやまなかった、美しく優しかった祖母の最期は不運が重なって自然死とはほど遠いひどい有様だった。
田園調布の裕福な家に生まれ育ち、名の知れた雑誌の編集長まで務め社会に貢献した大叔母は10年ほど前に正月に遺書を残して自死した。
発達と精神に障害がある姉は40歳を過ぎても母以外の人間とは深い関係性を築くことなく施設に入り、
10歳に満たないときに玉音放送が流れ教科書に墨を塗らされて以来、何も信じられるものがなくなったと笑う大伯父はいまも戦争の傷が影響している。
(まぁこの大伯父はもうすぐ90歳になるのにいまだに堀北真希似の20代との結婚の希望を捨てない時点でもとからあたおかなのだろう。わたしは正気の表情で狂った願望を公言する、現実には浮いた話がない大伯父の矛盾が好きである。)

また、40代の精神障害者の娘を80代の父親が手をかけた和歌山の事件がネットニュースで流れてきた日の夜は、帰路に着く電車の中であるにも関わらず、涙と鼻水を止めることができなかった。
(この親子はお互いをとても大事にしていた)
 
自分のことを言えば、わたしは12年前に同性に失恋したとき悲観して、死ぬ場所を求めて島根の離島に行くという行動に出た。

そのときに思ったことは、人間、生まれてきてしまったら、傷つくことを止めることなんて誰にも出来ない。母親でさえ、産んでしまった以上は同体の頃のように守ってやれない。
この世に生まれたら傷つくことや死ぬことは避けられないし、痛みや苦しみを肩代わりしてやることは出来ない。
私の精神が過保護なのかもしれないけれど。
暴力の網にかからずに生き延びられる人などいないのに、どうして。
どうして人は人を産むのだろうか。

20代前半に親族の派手な逝き方×2と失恋を経験して、人の一生のままならなさについて自分なりに考え始めたときから、自分が仮託できるものが、世間一般と少し外れていったように感じている。

いまや自分の遺伝子を残して命をつなげることに対しての素直さが欠け、このままでは何も残さず何も共有せず、一人で死ぬことが確実な未来に近づいているとわかっていても仕方なし、それでも良いと思うようになった。


話を善百合子に戻そう。

物語の終盤、共通の出自で繋がっていた恋人の逢沢潤はある決断のために、善百合子の世界から姿を消す。
生きるよすが(そんなものが彼女にあるとしたなら、逢沢がその一端を担っていたとしたなら)を失くした彼女の行く末が、読了後も気がかりでならない。

作中、善百合子はまだこの世に生まれていない子どものことを眠っている子どもと例え、「もう誰も起こすべきではない」と夏目夏子に言う。また、子どもをつくることを決めた夏子に対して肯定も否定もすることなく、ただ、

「生まれてきたことを肯定したら、私はもう一日も、生きてはいけないから」

と気持ちを吐露する。


このときに夏子は、

わたしが伸ばすことのできるこの腕ではなくて、もっとべつのしかたで、なにかべつのしかたで、わたしは彼女を抱きしめたかった。

と思う。

この世のどこかに、善百合子が存在している気がした。

束の間でも善百合子の気持ちを理解することができる人は内側に善百合子がいるのであろうし、同時に夏目夏子の言葉に同調して涙することは夏子の素質を持っている証でもある。

わたしも夏子同様、善百合子を抱擁したかった。
わたしの中にも、夏目夏子と善百合子がいる。

善百合子のために、想念のドレスを縫っている。
でもその生地の表面に何を描けばいいのかわからない。

 善百合子の世界から逢沢が消えた後、誰が彼女を抱きしめるのか。
彼女自身が生まれてきたことを肯定しないからといって、自分を抱きしめる腕がこの世に存在しないことを平気なこととして受け止められるわけではない。
だから、彼女のために作ろうと思っている。

 


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