見出し画像

100年前の死者と視線が合う瞬間④-King Gnuの音楽の鎮魂の作用-

 2023年6月4日、この日私は勤めていた会社の年上の友人(以下、婦人)からのお誘いで、日産スタジアムで行われたKing Gnuのライブに出向いた。
当日は晴天だったものの前夜の嵐の影響で交通に支障が出て、到着が遅れる観客が目立った。残念ながら婦人が使う線の電車は動かず、現地に来ることが出来なかった。私は彼女が手配してくれたアリーナ席にひとりで座る。場内を囲う夥しい人の波に感動し、強い日差しを浴びながら開演の時を待つ。

婦人と私はKing Gnuの音楽は勿論のこと、常田大希のファンでもある。
実物の常田大希はそれはもうとんでもない色男ぶりで、会場にセットされた巨大なモニターにその姿が映し出されるたびに、黄色い歓声が上がった。勿論、私も上げた。喫煙姿が様になるなんて、罪な人だと思う。

でも。
美貌と才能と時の運に恵まれてすべてを手にしているような人なのに、曲の内容は結構暗い歌詞だったりする。こんな僕でも生まれてきた意味が少しはわかるかな、などという。
こんな才色兼備の罪つくりでさえそう思うようになる事柄が連続するこの世は、いったい何なのだろう。

観客の帰途のために、当日は臨時の電車の本数が増えるほど興行的に成功しているバンドのライブは、レーザー光線や火炎、挙げ句の果てには花火まで打ち上げて、光を放つものなら何でもふんだんにつかってしまおうと言わんばかりの派手な舞台演出で、眩しかった。

最新の技術を駆使して彩られた舞台と、圧倒的なパフォーマンスと豊かな音楽性。
King Gnuの音楽の光に満たされるほど、どうしてか100年前のピアニストである久野久の最期が思い出されて号泣した。そんな理由で涙している観客はきっと私だけだろう。

だいぶ乱暴ではあるが、時代と専攻は違えど同じ学舎で学び、音楽家として生活しているとカテゴライズして見たら、同じ線上に位置する同胞と解釈している(その尺度でみるなら、作曲家の滝廉太郎の方がより近しいとは思うが)。そのためか、久とKing Gnuの本来なら繋がらないであろう関係を、勝手に地続きのものとして捉えている。

 King Gnuのことは、4年ほど前にJ-WAVEで流れていた「白日」を聴いたのが初めである。
なんというか、曲の展開の仕方にこれまで聞いたことのない珍しさと洗練を感じて、何だかすごくいいものを聴けたような気分がした。
(もっとも、ライブ中に知っている曲もあれば知らない曲もあったから筋金入りのヘヴィなファンとは言えない。)

日産スタジアムは音響に特化しているわけではないと思う。
むしろ音が反響するわりに霧散しているようで、少し聴きにくい場所に感じた。
しかし、それを差し引いても素晴らしい音楽で、その夜はその場にいる全員が熱狂していた。
ステージを囲う火炎に負けない強い光を放っているのは、奏者が命を削っているからなのだろうか。

世間から評価されてサンローランのアンバサダーになってヨーロッパに受け入れられている日本の男子4人のバンド。

かたや、日本国内に洋楽がまだ浸透していないが故の高評価のみで、自分の音楽で世界を揺すぶることができると豪語して行ったものの、音楽の本場ヨーロッパでは土俵にも立てないことを悟ったひとりぼっちの女性。

時代が違いすぎるし、音楽的歴史背景からして出発点が違いすぎるので比較対象にはならないけれど、自分の心身を貫いた音楽が導いた景色に、天と地ほどの差があって、その途方も無さに胸が痛む。

宮本百合子が著作「道標」の回想に、こんな一節がある。

「川辺みさ子(久野久を模した登場人物)のひどいびっこが雄々しい優美さをもってあらわれるのは、音楽の光につつまれてこそであった。」

音楽の光につつまれてこそ。

目には見えないけれど、音楽の光というものは確かに感じ取ることができる。
奏者がいる空間では、その人を貫く、中枢にある魂のようなものを受け取れる感覚が強くなる。
また、奏者も奏でることによって、救済されているように見える。
昔に受けた大学の講義の中で、柳宗悦の著書が引用されていた。
曰く、どんなろくでなしも手を動かし無心にものをつくることによって精神は清められて、浄土に近づくことができる。というような内容の一節で、それを思い出す。

頭ではなく自分の手が身体が、自分の一切を請け負うための動きを見せたとき、芸術が生む光の中に没入することができ、その状態に見る人も心を揺さぶられたり、救済されたに近い感覚を得られるのではないだろうか。

自分の中枢にある真摯なものを、見る人に譲渡しようとする様子。
そういうものに立ち会ったとき、言いようのない感動がある。
この心震える体験を、私は音楽ないし芸術の光と解釈している。


久のことに話を戻そう。
久野久はいつも、その音楽性とともに不自由な足のことを語られた(私の記憶に定着した一因でもある)。
身体的特徴は、時にギフトにも災いにもなり得る。

「優しい左肩をはげしく上下に波立てながら、左手を紋服の左の膝頭につっかうようにしてピアノに向かって歩いてくる川辺みさ子の姿には、美しい悲愴さがあった。その雰囲気に狂い咲いた花のようなロマンティシズムが匂った。(「道標」中巻p 213)」

作中のピアニストがピアノに向かって歩く様子を記したこの描写は、宮本百合子の師匠を慕う気持ちと、愛しいものに抱く憐れみの気持ちが透けて見えるとても美しい表現である。
しかし不自由な足のことを忘れさせる瞬間を短い言葉であらわした「雄々しい優美さ〜」の言葉は、久にのみに当てはまる類のものではなくて、表現する者の本質を捉えたものに思えて、はっとした。

自分の人生の足枷になっているものや、望まない暗い未来を回避するために続けたことが実を結んで、辿っていたかもしれない暗い運命を自分の力でねじ伏せた雄々しさ。
久に限らず、誰かのそんな姿を見ることができたら、きっと私はその果敢な美しさに対して賛美の気持ちにも似たものを抱いて号泣すると思う。

きっと久は、ピアノを弾くことで不自由な足で生きることの煩わしさや頼る者のいないかなしみや兄夫婦を養う重圧や、そうした諸々の一切を忘れることができたのではないだろうか。
舞台の幕が上がるからピアニストとして生きることが出来るし、仮に現実をなにひとつ忘れることなど出来ていなくても、観客の目に映る自分は「久野久」である。
また同時に、束の間でも自分であることを忘れられる忘我の瞬間が訪れるから、ピアノを弾くことを続けることが出来たのはないだろうか。


King Gnuの音楽を水圧の強いシャワーの如く全身に浴びながら、久への思いが募った。

遥か昔にたった一人で光って消えた蛍のような久の後に、寛いだ雰囲気で締結した、一点の悲愴感もない、閃光のように速度で輝くバンドが連なっている。
この事実に、歴史の残酷さと美しさを同時に受け取ってしまったように感じた。

そして、特筆すべき瞬間があった。

照明のうちのひとつと見紛うほどに煌々と輝く満月がライブの最高潮に差しかかる頃、高くステージの中央に位置した。
太陽の軌道を計算して建立された説のある平等院鳳凰堂みたいに、月の軌道を計算してこのステージを組んだのかしらと思うほど、完璧な月の配置だった。
地上で音楽を楽しむ私たちを見下ろす崇高な満月をみて、なんだかこの時間は天に祈りを捧げる、昔からある儀式のように思えた。

死者という、想いが届かない次元にいる人にも届けられる方法があって、
そのひとつの形態が鎮魂のための儀式なのだと思う。
想いや伝えたいことがあったのに間に合わなかったり、やり方を間違えたり。
鎮魂は、捧げる相手のためであると同時に、自分の内側にある何かを鎮めて埋葬することにもつながる。誰かのためのものであるし、自分のためのものでもある。
時には、誰のためでもないし自分のためでもないものにもなる。

仮に、自分がこの世から消えた100年後の世界で、まったく関係がないのになぜか自分のことを知ったような顔して、想っているちっぽけな存在がいるとしたら。
それはだいぶ酔狂なことだけれど、少し愉快なことにも思う。


深淵を歩いた久野久の生き方におそれているばかりだった。
でもその総てとは言わないけれど、誰かが受容しないといつまでも久が浮かばれないような気がしていた。
いずれ自分なりに、彼女の輪郭をつかみ、鎮魂のためにかたちにしていくことが出来ればいいと思っている。

埋没させていた素直な気持ちに立ち返らせてくれたのはKing Gnuのパフォーマンスの眩さと、久について綴られた宮本百合子の血の通った文章だった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?