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「ヤクザと家族」のやるせなさを紐解く〜終焉の切なさ、そして悪とは?〜

鑑賞から1週間以上経ってしまいましたが、引き続き「ヤクザと家族」についての記事です。
早くnoteを書きたいなと思っていたのですが、この1週間は仕事でとても忙しかった・・・・・・のではなく、この映画をきっかけに新書「ヤクザになる理由」(著:廣末登)を読んだり、映画「新宿スワン」「日本で一番悪い奴ら」を見たりしていました。まだまだ「仁義なき戦い」や「極道の妻達」など見ておかないといけない映画が沢山あるので引き続き大忙しとなる見込みです。

さて、こんな風に私をヤクザ映画の世界に導いてくれた「ヤクザと家族」という映画を一言で表現せよ!と無茶なお題を与えられたとしたら、みなさんはどんな言葉を思い浮かべますか?
家族?愛?栄枯盛衰?
私は「やるせない」という言葉を選びます。

やるせな・い 【▽遣る瀬無い】大辞林 第二版より
(1)思いを晴らすことができずせつない。つらく悲しい。
「片思いの—・い気持ち」
(2)施すべき手段がない。どうしようもない。

まぁ大体「切ない」みたいな意味ですね。
この言葉に行き着いた理由は、大きく分けて2つです。

①終焉の切なさ ex平家とか新撰組とか

賢治(綾野剛)が属する柴咲組は、義理人情を重んじる昔気質のヤクザです。そんな柴咲組のシマを狙うのは振興ヤクザの狭葉会。ヤクの売買も厭わないキケンな奴らです。柴咲組の若頭(駿河太郎)がまぁ〜〜〜イヤな奴!!嫌がる女の子を笑いながら無理矢理犯したりと、やりたい放題。最悪です。
が、しかし、一歩引いて見ると、彼ら狭葉会も何も好き好んで柴咲組のシマを荒らしに来ている訳ではないんです。都市開発によってシマが狭くなるのを見越して、生き残るために新たなシマに乗り込んで来ているのです。
なんだかこれって環境破壊によって森に住めなくなった動物が人里に追いやられて悪さをするのに似てるなぁと感じました。柴咲組を脅かす狭葉会もまた、新たに生まれた半グレという生態の前にはタジタジになっちゃったりして、特定の団体が永遠に力を持ち続けることってないんだなぁという儚さを感じます。

つまり、この映画で描かれているのは特定の組の終焉ではなく、ヤクザという組織の在り方自体の終焉なのです。
暴力や脅しに訴える解決方法は勿論あってはならないことですが、戦後のしっちゃかめっちゃかした世相の中においては必要悪として頼りにされた場面もあったことでしょう。身寄りのない食うや食わずの若者達の身元引受け口として機能していた側面もあったそうです。
しかし時代は移ります。世の中は刻一刻と変化します。ヤクザがなぜ必要悪から不必要悪となったのか、その原因は分かりません。地上げ屋がもういらなくなったから?つるんでいることがバレると世間から袋叩きに合うようになったから?いや、そもそも必要悪ですらなかったのか…?兎にも角にも、ヤクザがヒーローとして活躍する映画は年々減少し、もはやヤクザという文化は終焉を迎えつつあるのです。

ここに私は、平家物語でも唄われている「諸行無常」の切なさを感じました。いくら調子乗って「平家にあらずんば人にあらず」とか言っちゃってたとしても、そこに属する女子供までも海の中に身を踊らせて散っていく様は切ない。あんなに昔はブイブイいわしてたのに…!と思うと、なおのこと切ない。新撰組だって一時期は池田屋事件とかで元気一杯だったのにと思うと、やっぱり切ない。
が、しかし。新撰組には大義と呼べる思想があったかもしれませんが、ヤクザにはそれに該当する思想って無いんじゃないかな…?と感じます。なので新撰組と一括りにして語ると誰かから怒られそうですね、、、

②悪とは?

人は生まれながらにして悪なのか、善なのか…?
私は、そのどちらでもあるように感じています。つまり、悪人になるか善人になるかはその人が生まれ持った資質で決まるのでは無く、生まれた場所・家庭・育った地域等の後天的諸条件によって左右されると思うのです。
「100分で名著」という番組で最近取り上げられていた「ディスタンクシオン」では、「あなたが自らの意思で選び取ったと思っている趣味嗜好すらも、あなたの意思によって規定されたものではない」と述べられていました。

【100分で名著HPより】
なぜ「格差」や「階級」は生まれ、どのようなメカニズムで機能し続けているのか? この大きな疑問に回答をもたらそうとした名著があります。フランスの社会学者、ピエール・ブルデューの「ディスタンクシオン」。20世紀でもっとも重要な社会学の書10冊にも選ばれた名著です。階級や格差は単に経済的な要因だけから生まれるわけではありません。社会的存在である人間に常に働いている「卓越化(ディスタンクシオン)」によってもたらされる熾烈な闘争の中から必然的に生まれてくるといいます。番組ではこの名著を読解することを通して、知られざる階級社会の原因を鋭く見通すとともに、「趣味」と「階級」の意外な関係を明らかにしていきます。

主人公・賢治の父親は、ヤク中の挙句溺死してしまいます。天涯孤独の身になった賢治は父親を死に追いやったヤクの売人を見つけ、怒りの余りすぐ手を出してしまいます。
これは彼が生まれながらにして暴力的だったというよりは、感情が高ぶったときに暴力以外で感情を発露する術を知らなかったからだと感じました。
つまり、教育の欠如です。
本当は寂しく、不安で、でもどうしたらいいのか分からない…そんな賢治は柴咲組組長(舘ひろし)の包容力に安堵感を覚え初めて号泣し、親子の盃を交わします。

この映画を紹介するインタビュー記事や特集サイトには、「ヤクザとしてしか生きられなかった男の話」という文章が散見されました。
だけど本当に、ヤクザとしてしか生きられなかったのでしょうか?
映画鑑賞中、「おい!そっち行っちゃダメだ!」と思わず声をかけたくなるような別れ道は沢山あったように思います。「その先に待つのは、より大きな不幸に決まってるじゃないか!だのに何故!?」と声が出そうになりました。
が、そう思えるのは、その分岐点に気づけたのは、私が賢治の状況にいないからに過ぎないのです。例えば鬱病の時、他にも色々な選択肢があるにも関わらず「もう死ぬしかない」と思ってしまったりするように、渦中にいる人に他の道は見えないのです。
そう考えるとこの映画は、「ヤクザとしてしか生きられなかった男の話」ではなく、「ヤクザ以外で生きる道があったということを知らなかった男の話」と言い換えられるなと思いました。
社会的弱者達が自分達を守るための寄り合い…それがヤクザなのだとしたら、それは恐るべき排除対象では無く、手を差し伸べるべき悲しい存在なのかもしれません。

・・・とは言うものの、そんなことを感じるのは私がヤクザから実害を被ってないからでしかなく、この映画を見ただけでそんな感想を述べるのは甘っちろく薄っぺらな感傷に過ぎないことも自覚しています。
ただ、ヤクザを辞めてから5年間は住民票も銀行口座も作れない、子供を保育所に預けることも部屋を借りることともままならないという条例の存在には疑問を抱かずにはいられませんでした。
そんな条例があったら生きていくことすらままならなくて、引き続き法外な活動に手を染めることになってしまうんじゃないか?と思うのです。
確かにこの条例の効果でヤクザになる人は相当減っているそうですが、貧困や教育の欠如が改善されない限り悪の道に流れて行く人の総数はきっと変わらないので、生態を変えて悪は続いていくんだろうなぁと思います。

最後に、「ヤクザになる理由」(著:廣末登)から印象に残った文章を引用したいと思います。

〜なぜ人は犯罪を止めるのか、という理論〜
彼らの更生を考える上では、トラビス・ハーシの「社会的ボンド理論」が有効です。(略)ハーシによると、犯罪を抑制する次の4つの社会的ボンドがあると言います。
1、愛着のボンドー両親や教師、雇用者に対する愛情や尊敬の念を指し、彼らに迷惑をかけたくないという気持ち
2、努力のボンドーこれまで努力して手に入れた社会的な信用や地位を、犯罪に伴う利益損失と比較し衡量する気持ち
3、多忙のボンドー合法的な活動に関わり、非行や犯罪に陥る時間がないこと
4、規範意識のボンドー社会のルールに従わないといけないという意識。罪の意識

この映画を見て、自分にできることは何かあるのか、もしあるとしたら何なのか、ほんの少しですが考えるきっかけになりました。


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