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冒険ノンフィクション「外道クライマー」〜激ヤバ珍道中〜

“沢ヤ”ってご存知ですか?

山登りに取り憑かれた人のことを、“山ヤ”と呼ぶそうです。鉄道マニアを“鉄っちゃん”と呼ぶような、愛情がこもった感じがします。
山登りではなく沢登りに取り憑かれた男・宮城公博が書いたノンフィクション冒険譚が、この『外道クライマー』です。

藪を掻き分け、苔や泥まみれの川を渡り、滝を登ることに命を燃やす“沢ヤ”は汚い・臭い・危険の3Kと言われ、山岳ヒエラルキーの下位に位置付けられているんだとか。(因みにヒエラルキー上位は雪山登山だそうです。分かりやすい記録が出やすいし、見た目的にシュッとしててオシャレだから)

私はかなりのインドア派で、健康維持以外の目的で体を動かす人々の心理が理解できないタイプの人間です。山登りなんて中学校の課外活動以来したことありません。富士山だけは死ぬまでに一度は登ってみたいなぁ…と少しは思うのですが、余程のきっかけがないと結局挑戦しないでしょう。
そんな訳で、『外道クライマー』は人から勧められなければまず読まなかった一冊でした。

が、これが意外にもすごく面白かった!
全く理解できないタイプの人間の思考回路を覗き見できるという、読書の醍醐味を味わえた一冊でした。
なんと言っても文体がユーモラスなので、町田康あたりを好きな人にもきっと楽しんでもらえると思います。

沢ヤの心理〜なぜ登るのか〜

8章に分かれて書かれたこの一冊の幕開けを飾るのは、『那智の滝登り編』です。
那智の滝とは和歌山県にある133mの落差を誇る日本最大級の滝で、自然崇拝の対象として崇められてきた由緒ある瀑布です。

御神体なので登ることは禁じられているのですが、筆者の宮城公博はその魅力に抗うことができず、とうとう数名の仲間と共に那智滝登りに挑んでしまいます。
当然現行犯逮捕され、それぞれリストラされたりスポンサーを失ったりと大変な目に合います。
普通に考えればそうなることは当然予想できたはずなのに、どうして彼らは那智の滝を登ってしまったのでしょう?何が彼らを、何が沢ヤをそうさせるのでしょう?
印象的な一文を引用したいと思います。

日本一の滝という称号を抜きにしても、那智の滝は美しい。私はこれまで無数の滝を登り、見てきた。その中でも那智の滝ほどに威厳を放ち、整った形の滝はそうそうない。そんな滝が誰にも登られていないという事実が、私に「人間に登ることができるのか?」という疑問をもたらした。疑問は日に日に深まった。それは発作的な恋に蝕まれるようなもので、疑問を解決しないことには夜も眠れなくなってしまうのだ。

絵描きが「描きたいから描く」のと同じように、そこに登りたい滝があるから登る、それが沢ヤなのです。
登らずにはいられない業を背負った人間、それが沢ヤなのです。
アーティストの業に近いものを感じました。
しかし、筆者は当初は日の出前に那智の滝を登りきるつもりでいました。
人目に付かないうちに登りきり、こっそり降りようとしていたのです。
アートは見る人がいてこそ成立するものですが、筆者のやろうとしていた滝登りは観客不在です。
言うなれば、自己満足のための滝登りです。
これはどういう心理的要求なのでしょうか?

私は、修行僧的心理No.1を求める俗人的価値観、その両方を併せ持った複雑な要求を感じ取りました。
つまり「世間なんて関係ない!自分自身との戦いなんだ!」という性質と、とは言え世間から賞賛されたいという記録への憧れの合わせ持ちです。

第二章で、筆者が次の冒険先をどこにしようか考えている描写があります。

グーグルの地形図を眺めていると、東南アジア最高峰・カカボラジの近くにそれより100mほど高い山を見つけた。地形図の間違いでなければ、これこそがミャンマーの最高峰だ。調べた限り登頂の記録はない。現代において諦めかけていた高峰でのパイオニアワークが残されているかもしれない。怒涛のような歓喜に襲われ、その日のうちに計画書を書き上げた。
(略)
私が発見したと思い込んだ新最高峰は、ガムランジ山という名前がすでに付いており、去年の夏すでに初登頂されていた。
(略)
近年、ミャンマー政府はこの山域をエコツーリズムの対象として開放しだしているらしい。秘境中の秘境と思っていた山域は、すでに社会の枠組みの中に組み込まれ始めていたのだ。

「まだ誰も見たことがない景色を見たい」という要求は、子供のように純粋な好奇心誰よりも先に征服したいというマッチョイズムの2つの心理が隠れているように思いました。
短絡的憶測ですが、処女好きなんだろうなーと思います。
(勝手なこと言ってごめんなさい…!)

苦労したいの?楽したいの?矛盾が生む人間らしさ

わざわざ苦労するためにタイのジャングルに赴いた筆者。
背丈を越える藪を泳ぐように掻き分けて(この行為を藪漕ぎと言う)目当ての沢まで進んでいくのですが、思いの外藪が濃く予定の行程より進みません。
そこで編み出した技が『プカリ』

川に浮かべたリュックサックにしがみ付き、ただ流されるだけ。という戦術です。リュックサックの浮力によってかなり安定した状態で進めるのですが、ずっと半身が水に浸かった状態になるのでかなり寒いんだとか。
とはいえ、藪漕ぎするより大幅にスピードが上がるし、何と言っても楽チン!!

ということで筆者は自ら編み出した戦法・プカリを多用していくのですが、私はこの文章を読んで「結局楽したいのかよ!!」と突っ込まずにはいられませんでした。数十日間粗食に耐え、重い荷物を背負い、風呂にも入れないというストイックな生活を自ら選ぶ割りに、抜くとこは抜くんだなぁと思うと少し親近感が湧きました。

自然ってどこまで?自力ってどこまで?

「冒険中はいかなるサポートも受けない」というマイルールを自らに課している筆者ですが、その線引きが難しい…!
例えばジャングルの中で狩猟採集で暮らす少数民族の集落に出会ったという場合は?
文明の外に生きる人たちとの交流は探検的行為と言えるので積極的に行うべきだということで施しをもらうのはOK。しかし彼らが最新型のアイフォンを所持していた場合は、文明的と言えてしまうので接触はNG。
もちろん国の公的な施設や団体と遭遇した場合は、いかに食糧不足だろうと施しを受けるのはNG。でも彼らが食べ残した残飯を漁るのはOK。
この線引きには結構納得したのですが、結局筆者はその線引きを破ってしまいます。いや、意思薄弱か!!!と突っ込まずにはいられませんでした。

また、GPSや衛星電話を持っていくべきか否かという問いでも筆者は悩みます。
自分の居場所や目的地までの距離が明確に分かってしまうことは、冒険的な楽しみを大きく奪うからです。
でも遭難事故を起こして他人に迷惑をかけるリスクを考えると、せめて衛星電話を持参することは登山者の義務とも言えます。
一方で衛星電話があると、いざという時に助けを呼べるという安心感から、丸腰の時よりも積極的行動が取れてしまう危険性もあるのです。
何より、仮に衛星電話を使わなかったにしても、それを持っているという心理状態での登山で果たして自然の深淵を覗いたと言えるのか…

『外道クライマー』という脳味噌が筋肉でできてそうなタイトルの本から、こんなに哲学的な問いが提示されるとは予想外でした。

ユーモラスな筆致

この本の主役とも言える愛すべきキャラクター、“高柳傑”。
タイのジャングルで46日間を過ごすというハードな冒険において、筆者の相棒を務めた男です。(本業はアルパインクライマー兼、山岳写真家)

文明から隔絶されたジャングルの中で必死にソーラーパネルを充電し、ようやく貯まった貴重な電力で『けいおん!』の音楽を楽しんだり、「他人の手を借りない冒険」に拘る筆者の意思を無視して現地人にタバコをねだったりなど、人としての俗っぽさが溢れていて、それがまぁなんと言うか愛らしい。
イラっとするけど憎めない男、高柳。
生きるか死ぬかというギリギリの描写が続くなか、高柳と筆者のやりとりは極めて間抜けで、そのコントラストが面白いんです。
TV番組『クレイジージャーニー』に、森見登美彦の『四畳半神話大全』の抜け感を混ぜた感じとでも言いましょうか。
全く興味のないジャンルについて書かれた一冊でしたが、こんなに楽しく読み進められたのは宮城公博さんの筆力によるものだと思います。
自らを「外道」なんて呼ぶけれど、実はかなりクレバーな人なんじゃないかな…?


共感できない世界が、本を通じて共感はできなくてもほんの少し理解はできそうという予感を抱けるようになるという、読書の醍醐味を感じました!

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