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西川美和「映画にまつわるxについて」②〜音響が映画の質を左右する〜

前回の記事の続きです。
このエッセイを読んで「おお〜」と思ったのは音響にまつわるエピソードでした。
映画というと注目されやすいのは、キャスティングの妙や役者の芝居、素敵な衣装やおしゃれなセット、エンドロールの主題歌なんかだと思います。
「この映画、音響が素晴らしいよね!」という感想ってあまり聞かないですよね。音は目に見えない、だから気づかれにくい。けれど、映画の質を左右するのは音である!と言っても過言ではないほど重要なセクションだったことが分かりました。

「音こそが芝居」。その言葉の重みを痛感するのは、編集も進み、お天道様のご機嫌を伺っていたことが懐かしく思える頃。現場での同録をいい加減に切り上げたジャッジのツケが、ボディブローのように私の内臓に効いてくる。

カメラで役者の姿を撮影するのと同時に、台詞やその場の音(風の音や衣ずれの音etc)を同時に録音することを、同録と呼びます。
屋外ロケでの同録はかなり大変だそうです。例えば大掛かりなカメラの移動の仕掛けを作り、俳優が長い芝居を熱演し、さぁ最後を締める台詞!というまさにそんな時、カラスがカァと鳴いたり飛行機が低い空を飛んだり、救急車のサイレンが鳴ったりしてしまえば全てはおじゃん。「はいNG、撮り直し!」です。
映像的には全く問題ない画が撮れていても、役者の演技がどんなに素晴らしくても、音が録れなかったというただその一点のために「もう1テイクお願いします!」と言うのはかなり辛いものがあるでしょう。
ドアップのカットじゃない限り、後から映像に合わせてアフレコしてもらうこともできなくはない。それでも同時録音にこだわるのは、同時録音でしか獲れない芝居の質感がそこにあるからだそうです。

音響さんの仕事は台詞まわりだけではありません。沈黙が続く場面であっても、例えば室内の場面であればクーラーの音がうっすらと聞こえていたり、ビールの缶をプシュッと開ける音だったり、窓外から聞こえる虫の音だったりと、映画の中の音は全て何かしらの意図があって鳴っている(或いは鳴らない)のです。
西川監督は、ある作品の中で線香の先端が赤くジリジリと燃える音が欲しかったそうなのですが、実のところ線香は音をたてては燃えません。そこで音響効果技師さんはどうしたかというと、おもむろにフライパンで野菜をジャージャーと炒め始め、その音を極小の音量で流したそうな。
本当の音を録る(獲る)ことに執念とも呼べる情熱を傾ける一方で、偽物の音も駆使し、音という持ち場から映画を支えるプロフェッショナル…!
実にカッコいいなと思います。

美しい仕事。映画を作れば、この練達の士たちとまた仕事が出来る、そういうことこそが、私を再び平たい机に向かわせる。

西川監督は数年かけて渾身の一作をこしらえる、作家性の強い監督です。
きっと拘りの強い完璧主義な人なんだろうなぁと予想していました。(「皆で私の脳内世界を忠実に具現化せよ!!」的な・・・)
しかしこのエッセイからうかがえた西川監督はそうではなく、人と作ることによって生まれる化学反応を心待ちにし、スタッフや演者を心からリスペクトしている方でした。


他にもたっっっくさん心に残る文章があったので、映画やエンタメが好きな人には是非ともオススメしたい一冊です。

あ、あとコレ↓は自分への戒めとして書き留めておきたいと思います。

脚本を書くときも、取材やリサーチに没頭しすぎると、いつの間にか「現実を知ること」「現実を忠実になぞること」それ自体がテーマにすり替わって行き、「現実を超越する何か」を掴む、生み出す、ということを忘れることがあるのだが、それは前者の方が断然楽だからなのである。
手間や負担はかかり、周囲からは「仕事をしている」と認められやすいが、自分自身の本質的な創作の力量や限界を試す作業ではないから、深いところで傷ついたり焦ったりすることがなくて、実のところはものすごく怠惰なアプローチでもあるのだ。

モノを書くことに限らず、例えば試験前に部屋を掃除したくなるのも同じ心理だなぁと思いました。比較的罪悪感の少ない逃避行動ってやつです。


あれ?今このnoteを書いているのも、もしかして・・・?


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