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相反する思いの狭間で、いかに折り合いをつけて生きていくか〜エッセイ「夫が倒れた!献身プレイが始まった」を読んで〜

実家で見つけた真新しい本。
巻末を確認すると、【2020年11月30日発行】と書いてありました。
出版ホヤホヤ!

母はいつも図書館で本を借りることが多いので、(購入した本は珍しいな)と思い、私も読んでみました。
約3時間半ほどで読了できる読み進めやすい文体ながら、「これは何だ…?哲学の本か?」と思わせられるような深さを持つ名著でした!
ハッとさせられる名文が多いのもオススメしたいポイントです。なんでも、筆者はコピーライターを本業としているとのこと。なるほど、どーりで絶妙な言葉のチョイス。心に刺さる訳です。

以下、簡単に内容をまとめます。

ある日突然、私(56歳)の日常が一変する。
夫(59歳)が脳内出血で倒れたのだ。
意識の戻らない夫。現実を飲み込む暇も与えられぬまま迫られる、《どんな治療を施すか》の決定。周囲の人々からの様々な目線。良き妻とは〜・普通は〜というプレッシャーや思い込み。医療制度の問題。

–––––介護とは?結婚とは?親と子とは?愛とは?命とは?

こんな人には特にオススメです↓
①心理的に大変近い距離感にあった人との《別れ》を経験したことがある
②自分もしくは身近な人が、介護をしているorしていたor始まりそうだ
③【結婚】【母と娘】【植物状態】これらのワードの中に、気になるものがある

この本を読み終わったら、筆者である野田敦子さんについて簡潔に形容してみてください。なるべく少ない単語で!
・・・自分で出題していてなんですが、これ、相当難しいと思います。

「優しい」「でもドライな一面もある」「現実的思考ができる人」「でも30代まで演劇を志していたって…意外とロマンチスト?」「ファイター」「献身的」「献身的であらねばと思っている?」「そんな自分を俯瞰で見ている」「それは物書きという職業故?」「でも書いている文章が俯瞰的だからと言って、四六時中そうである訳ではないよな」「書くことによってバランスを保っている」「そう考えると、強い人に見えて結構ギリギリなのでは?」

筆者の文章には様々な色が複雑に入り混じっていて、とても簡潔には説明できません。唯一、端的に彼女のことを説明できるのは、あとがきにあったこの一文だと思います。

人間は、たった一つの感情だけで生き続けることはできません。心の中はいつだって相反する叫びやつぶやきや嘆きが溢れ、ぶつかり合っています。

夫が倒れてから様々な感情が心に浮かび、それを咀嚼し、消化し、消化しきることは無くても現実に立ち向かい、疲れ、それでも緩やかに日常を再構築していく・・・これが「生きる」ということなのだなぁと思いました。
表紙の可愛らしいイラストからは想像し得なかった、気高さすら感じる一冊でした。
この本の土台となったブログのタイトルは『献身と保身のはざまで』だったそうなので、筆者は自分のことを気高いなんて思っていないことでしょう。
むしろ、「気高いなんてプレッシャーになるからそんなこと言うのはよしてくれ」と言いそうですが、敢えてそう言いたいのです。
献身だけではない、相反する感情もそのまま文章にしているところに、そしてそれらの思考回路をしっかりと言語化できていることに、尊敬の念を抱かずにはいられません。


特に印象的だった部分を引用したいと思います。
まずは、P37。夫が倒れて間もない頃。生活習慣を見直すチャンスは沢山あったのに…と悔やみながら、自分と夫の関係性について顧みている文章です。

相手の身を思っているようで、その実、私の保身に行き着く心配を盾に年がら年中口うるさく叱りたくなかった。いつか病に倒れるかもしれないが、もっとずっと先だろう。そうやって現実を直視しないようにしてきたのだ。
理由はどうあれ、私たち夫婦は手に手を携え、互いが互いを甘やかしながら、この日に向かって歩いてきた。この発病で、彼の前だけで現れる私も消えてしまった。それは、10代の頃と地続きの無邪気さを残す私だ。若い頃を丸ごとなくし、分別臭いおばさんの自分だけが残った気分だ。

メンタリストのdaigoが言っていたのですが、失恋の苦しみの多くは、その人そのものを失った心理的負担では無く、その人を失ったことによって自分のアイデンティティーの一部が損なわれることによる心理的負担だそうです。
身に覚えがあっただけに、ぞわっとしました。でも、それを言語化できるレベルで自覚できれば、あとはその《自分の一部》にお別れすれば区切りがつく訳です。
時間に任せて忘却することも有効ですが、深く考えることによってより深いレベルで解決することもありますよね。

次はP41。夫が倒れてからバタバタとした日々を送っていた筆者が、信頼する姉の前で初めて号泣したときの文章です。

一人の時はこうはいかなかった。
ふとした時に涙は目に浮かぶが、号泣の手前で去って行く。道を歩いているとき、食事をしている時、自転車を漕いでいる時…泣きたい気持ちを捕まえようとしても、いつの間にか収まってしまうのだ。
ある時、泣きたくなった自分はどんな顔をしているのだろうと洗面所に走って鏡を見てみた。そこには目と鼻の周りだけがどす黒く染まった濁った色の疲れた顔があった。自分の姿をみて憐みが増すどころか、感情移入を拒む不細工な老け顔がそこにあって興醒めした。自分がもっと美しければいいのにと思った。
号泣のスイッチは、安堵なのだと思った。押さえ込んでいる感情が安堵とともに堰を切ってあふれだし、号泣という現象を呼ぶのだ。

《泣く》と《号泣》との決定的違いをめちゃくちゃ分かりやすく分析していて、思わず「なるほど〜!」と声を出してしまいそうになりました。
・・・でもたまにドラマや映画で、登場人物が「ウワァあぁあぁあぁ!」って泣いてるシーンありますよね。あれってどういう感情で演じてるんだろう。安堵というスイッチが脚本上設定されてなくても号泣できる役者って、頭の中で何考えているんでしょうね。気になる。それとも、安堵以外にも号泣のスイッチってあるのかしら。もしくは、《号泣》じゃなくて《慟哭》なら安堵がなくてもできるのでしょうか?だとしたら慟哭のスイッチってなんなんでしょうか。

続いて、P72。
夫が倒れて暫く経ち、家の洋服箪笥の整理をしていた時、ふと夫の衣服ばかりが取り出しやすい位置に収納されており、自分の衣服は奥や一番下の段など不便な位置にあることに気づいたときの文章です。

なんとまぁ昔の女房だったことか。男性が大きく女性が小さい夫婦茶碗型思想を強固に持ち、それを暮らしのすみずみに当たり前のように適用していたのだ。
夫といる時の私が一番自由でのびのびしていると信じて疑わず生きてきたが、自分の下着や服を出し入れしやすい場所にゆったり収めた時、かすかだがはっきりと、重しがとれたような解放感を覚えた。

またまたメンタリストdaigoの受け売りなのですが、人間の脳が一番嫌うストレスって「変化」だそうです。よくよく考えればおかしい状況だとしても、脳は無意識に現状維持を望むのです。
えいや!っと行動を起こして現状を変えれば、より居心地の良い未来が待っているとしても。
この状態から抜け出すには、何か大きなきっかけ(それも外部的要因による)が無ければいけません。
ですが大きなきっかけなんて滅多にない。
重要なのは、「それって本当にそう?それ以外の選択肢はないの?」と考える癖をつけておくことだと思います。

選択肢の重要性や、思い込みの怖さについては、以下の文章を読んだ時にも感じました。

P87
医師が満面の笑顔で口にする「家庭で看られますよ」という言葉に含まれる朗報のニュアンスがつらい。朗報の裏に、ごく僅かでいいから悲報を忍ばせてくれないか。真反対の感情が存在するすることを想像し、受け入れてくれないか。もしそうであったなら、迷いや悩みも率直に語ることができる。「家庭で看ることができますが、それって大変すぎるかな」程度のごく僅かの保留。ごくわずかの余白でいいのだ。
P141(娘が海外で就職するつもりだと医療スタッフに言った時の文章)
「それはお寂しいですね。地元から離れて就職するつもりの娘さんでも、お父さんが倒れたから実家きら通うことにした方、多いですよ」
(略)
その人は、そうするのが正しいと言おうとしたのではない。よくあることとして話してくれただけだ。実際、私の周りにも、父親がこんなことになったのだから娘は親元にいるはずだと考えている人が意外なほど多かった。夫が倒れた直後、義母が娘に「あたなが頼りよ。お父さんのこと頼みます」と当たり前のように口にした価値観が、依然として広く深く根付いているのだあ。息子なら、こんなに期待されてだろうか?


以上が私に特に響いた文章でしたが、きっと読む人によっては違う箇所が刺さることと思います。私も何年か後に読み返したら、恐らくまた違った感想を抱くことでしょう。数年おきに読み返したい、そんな一冊でした。

最後に、(この考え方好きだなぁ)と思った箇所を抜粋します。

どんな愛情も、状況と関係によって変わる。その証拠に、私の娘に対する愛情も時とともに変わってきた。四六時中、この腕に抱いていた乳児期から、いつも手を繋いでいた幼児期、その手を離して比喩的な表現をするなら、少し長めの紐に替えた小学生のころ、さらに紐の長さを伸ばして、その先が見えなくなった中高生時代。もっともっとその紐を海外まで伸ばした大学生の時代。そして、コロナ禍のなか就活が決まって日本を離れる時、私は、心の中で紐をプツリと切った。
(略)
この人がいなくなったらどうしようと想像するだけで泣いてしまいそうになる愛は、ほとんどの場合、依存だ。愛と依存は分かち難い。依存がなくなったとき、愛はどれくらい残っているだろうか。


これまで結婚式での誓いの言葉って大体「病める時も健やかなる時も、変わらぬ愛を誓いますか?」でしたが、令和の誓いの言葉は「互いに敬意を土台として、臨機応変にその都度適切な愛を注ぎ合うと誓いますか?」がいいんじゃないかなと思いました☆


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