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文章力はいつの時代も高めておいたほうがいい

文章力はほかでもない現代に必須の能力です。

普遍の基礎能力でありながら、個人的には今、最も重要視すべき能力ではないか…とさえ感じるほどにその大事さを身に染みている昨今です。

15年以上前、レンタルサーバーを用いて自分で日記を書き始め、10年以上前にはmixiを使い、現在ではnoteの場を借りて日々自らの思考整理の結果をこうして遺していくようになりました。ある人にとっては時に役に立たない内容として、またある人にとっては時に役に立つ内容として少しでも貢献することができれば…と考えています。

かつてはビジネスでもプライベートでも連絡手段といえば電話でしたが、それもあっという間にメールに置き換わってしまいました。顧客や取引先の顔を見ないまま、メールだけで仕事が進むのも珍しいことではありません。

今ではTeamsを使ったり、Backlogを用いたり、あるいはRocketChatのようなものを活用したり、チャットで済む現場も増えてきているようです。

画像や動画中心のメディアが隆盛ですし、実際TeamsやZoomを用いたWeb会議なども頻繁に行われていますが、一方でTwitterやLineなどの文字情報中心のメディアにも人気があります。新聞を読む人は減ったといわれますが、それはインターネット上のニュースに切り替えた人が多いというだけであり、結局は文章でニュースに触れているわけです。

マスコミなどではこぞって「活字離れ」などと言い続けてきましたが、紙媒体の書籍離れは増えていても、電子書籍やインターネット、SNSなど、環境の異なった活字への触れ合いは以前の紙媒体の頃より増えているとも言われています。

決して活字そのものから離れているわけではありません。
私もnoteやTwitter、スマホならSmartNewsなどはほぼ毎日確認しています。

また、テレビ番組の内容を書き起こし記事で確認するという人もいます。動画となるとどうしても一定時間、画面の前に拘束されることになりますが、活字の場合であれば関係ない部分を読み流しながら自分にとって重要な部分だけを吸収できるからです。結果として短時間で情報収集ができます。ちょっとした速読をマスターすればさらに時短が狙えます。

忙しい現代だからこそ自分のペースで情報を得られる文字メディアの価値が高まることでしょう。だからこそ現代においても文章力は高めておいたほうがいいのです。


ソフトウェア開発を例に挙げてみると

ソフトウェア開発を生業としているみなさんはプログラミングだけしていれば、IT業界は仕事が成立するとお思いですか?
お客さまとのやりとりはすべて会話ですか?
会話のみですべての認識や知識を共有することは可能ですか?
この先、一生問題を起こすはずもなく、お客さまへの報告をする必要もないと思っていますか?

もし、そのような夢を見ている人がいらっしゃるようであれば、考え方を改めたほうがいいでしょう。

昨今、ソフトウェア開発の業界内でも設計書や文書をあまり書かないスタイルを採用している人も非常に増えてきているような感覚を覚えますが、本来よほどコミュニケーション能力の高いメンバーだけで構成されたチームによるアジャイル開発手法でもない限り、

 開発全体の半分以上が文書作成

になります。それにアジャイルやアジャイルっぽい進め方をしてプロジェクト単体を成功させたとしても、過去の情報資産が不足しているせいで保守や保守開発、リプレースなどの際に担当などが変わっていると情報が引き継がれず困ってしまう現場…というのも後を絶ちません。結局、情報の記録媒体が存在しなければ中長期的に見た場合に困ったことになってしまうのは今も昔も何ら変わっていないのです。

未だにすぐにプログラムに手を付け、プログラミングばかりに注力するエンジニアは後を絶ちませんが、それで問題ばかり起こしていては本末転倒です。

「何をしたいか」ではなく、成功するために「何が求められているか」という視点で見た場合、プロフィットセンターであるお客さまの予算で働かせていただいている身でありながら、

 "文書化しない(決定事項や合意形成を永続化しない)"

という選択をして、お客さまに証明あるいは説明する業務を省くことが、
どれほど不誠実な行いであるかということがわかってきます。


まずは理解、そして徹底した反復

私たちは大人になるにつれ、さまざまな能力を身に付けていきます。

年を重ねるにつれ、自然にできるようになることもありますが、「文章を書く」という点に関しては強烈な苦手意識を抱え続ける人も多いのではないでしょうか。

  • 文章をうまく書けない。

  • とにかく書くのに時間がかかる。

  • 書こうとすると疲れる。気が重い。

  • 何が言いたいかわからないと言われてしまう。

こうした悩みをよく聞きます。

企業が若手の研修課題に指定することも多くもありますし、仮に何を受けるか自由に選べる企業でも「文章力を磨く」を選んで受講する方が多いそうです。これもまた大人になっても文章に苦手意識を持っている人が多い証と言えるでしょう(逆に年輩になればなるほど、役職が上がればなるほど反比例するそうですが)。

ちなみに、現在の学校による国語教育は「読む」一辺倒から「読む・書く・聞く・話す」に移行しつつあります。まぁそれらはいわゆるコミュニケーション(情報の伝達と共有)を実現するための基礎的な手段でしかありませんが、これらが疎かになっていると人間社会のなかでまともに対人関係を構築することもままなりません。

それでもなお、「書く」ことについての教育は不親切であると感じます。

作文や感想文、小論文などを書かされる機会があるにしても「どのように書けばいいのか」をほとんど教えられないままいきなり「書け」と言われてしまうのです。

原稿用紙3枚はどうやったら埋まるのか。
どうしたら説得力がある文章になるのか。

そうしたことを教えられずとにかく「原稿用紙3枚分書きなさい」と言われるので、どうしていいかわからず途方に暮れてしまう子どもが出てきてしまうのです。

文章構成の概念もないままに規定字数を埋めるため、ひたすら何かを書き、何となく仕上がっている…というパターンが多いと思います。

上手な子は先生から褒められたりコンクールで賞を取ったりしますが、「この子の文章は具体的にこういう点で優れている」という技術的な分析はあまり紹介されません。

したがって、うまくいった当人にも周囲にも書き方のノウハウが蓄積されないのです。単に

 「あの子はすごい」
 「自分のはダメだったんだ」

という人の問題で終わってしまうわけです。

賞などに選ばれた子は「自分は文章が得意だ」という自信を得るので、それからも積極的に書いていくでしょう。おそらくはそれだけでどんどんうまくなっていきます。

一方、選ばれなかった子は文章に関して苦手意識を持ち、「自分は得意と思っていただけだったんだ」と思い込んでしまい書くことを敬遠しがちなので、そのままの力で大きくなってしまいます。それで差が開いてしまうのはもったいない限りです。

多くの人にとって必要な実用的方面の

 文章力は、意識的に技術を学ぶことで、
 後天的に誰でも身に付けられるもの。
 あとはとにかく徹底して反復するだけ。

という発想をどこかで欠いてしまうのです。それを教えてくれる大人というのもあまり存在しません。そして単純な苦手意識だけで習得しようとしないのは非常に勿体ないのです。

文章技術の習得は数学の学習に似ています。

数学ではまず、方程式や公式、定理がどう成り立つのかを証明内容から理解し、そのプロセスを覚え、それを使用する簡単な練習問題を何度も何度も解きながら身に付けていきます。その後、応用問題に挑戦します。大事なのは

 予備知識としての理解 → 徹底した反復

です。地味かもしれませんがそれ以外に方法はありません。そしてこの学びの順番を文章を学ぶことにも応用するだけでも基礎力は飛躍的に伸びます。

  • 効果的な文章技術を理解し

  • 己の中で公式化し

  • それを簡単な練習問題を繰り返すことで定着させ

  • 実生活の文章作成に活かす。

得意な人も苦手な人もいるでしょうが、こうしたサイクルで一歩一歩学んでいけば文章力は身に付かないはずがないのです。



文章のうまい人はやはりアウトプットの量が多いと感じます。

インプットも大切なことですが、それ以上にアウトプットが重要です。

 インプットが無ければ、アウトプットが豊かにならない。
 アウトプットに活かさないインプットに価値はない。

鶏が先か、卵が先か…みたいな論争に発展しそうですが、これらは言ってみれば車の両輪のようなものです。どちらか一方だけでは意味がありません。両方成立させて初めて価値が生まれます。もしもインプットばかりで情報メタボになってしまっている人がいたら、次はアウトプットに注力してみてはいかがでしょうか。

見られると想定して文章を書くことを繰り返すと自分の文章を客観視できるようになります。ただのメモだとしても、意識的に他人に説明することを想定して作るようにするのです。

客観的に見ていいところを伸ばし、悪いところを直せば文章は確実にいいものになります。文章のうまい人はアウトプットを繰り返しながらどんどん上手になってきたのです。

もちろん先の説明のようにインプットも重要です。

本や新聞を読むというインプットは、模倣可能な語彙や文体の基盤を作ります。アウトプットの幅を広げてくれるのはインプットの奥行や幅広さに比例します。

しかし、同じ本を読むにしても、書く習慣がある人とない人とでは見ている視点、視野、視座が異なります。

もしミュージシャンが他のミュージシャンのライブに行けば、曲の構成や音響設備、照明の使い方などの演出を

 「こういうやり方があるんだ」
 「自分ならこうするな」

などと自分事と捉えて観察するでしょう。そこに音楽そのものにはあまり興味のない学生を連れて行っても「楽しい」「にぎやか」「スゴイ」くらいにしか感じないかもしれません。それと同じです。

文章を書く人は、文章の読み方が変わり、一つの文章から学び取れることが多くなるのです。

けれども書く習慣がない人、学ぶ目的意識が低い人は、

 「面白かった」
 「面白くなかった」

といった上辺の評価しかできません。
それ以上の興味が沸かないし、沸かなくてもいいと思っているからです。

そういえば昔、音楽の先生が腹式呼吸のコツを教えてくれたことがあります。

「まず吐き切ること、吐いて吐いて肺を空っぽにすることだ」と。「吐き切れば、あとは力を抜くだけで自然と息が肺に入ってくるので、吐くほうに意識を向けましょう」と。

文章も同じでまず書いて書いて書き切ることです。そうすれば自分に足りないもの、学びたいことについての本を自然と手に取るようになります。

この考え方は、ありとあらゆるものに通じます。

なんでもそうですが、まずは「やってみる」から始め、「やりきって」から何が不足しているのかを把握しないと、誤りや不足が特定できないため、絶対に上達しませんし絶対に成長しません(あえて言うなら、成長する気概が不足している(成長する気がない)ということだけが判明します)。


文章の力を身に付けると、レバレッジが効きます(相応のリターンが期待できます)。

文章自体に説得力があるなら暑い中/寒い中の外回りの営業も要らなくなるかもしれません。

今ではリモートワークという風習・制度も広がっていますからメールのやり取りで、仕事を的確に進められるなら満員電車や遠距離通勤を避け、自分のペースで仕事ができるかもしれません。プロモ次第で顧客の興味を引く度合いは大きく変わってくるかもしれません。

 文章力を最大限活かせば、仕事を効率化できる一助となる

のです。

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