論理的ではないと言われてしまう原因
「空気を読め」
「忖度する」
などを暗黙のうちに強要し続けてきたことで、他人の顔色に敏感で情緒的な解決をしがちな日本人あるいは日本文化にとって、話の持つ「正しさ」だけで他人を説得する行為は実はもっとも苦手としている分野だったりします。
本来「正しい」話にはかならず説得力があります。
説得力があっても素直に「Yes」と言えない事情はあるかもしれませんが、説得力のない正しさと言うものは存在しません。
ここまではいいでしょう。
しかし、実際問題としてどんな話をすれば聞き手に「正しい」と感じてもらえるのかあやふやなままの人が大多数ではないでしょうか。
結論から書いてしまいましょう。
話す内容だけで「正しい」と感じてもらうために必要なものは、次の二つ。
信頼できる「根拠」
納得できる「論理」
この二つが揃った時に、相手はこちらの話を聞いて「正しい」と感じます。
具体的にはどういうことでしょうか。
とりあえず、それぞれの要素をざっと見てみましょう。
たとえば、
「朝の天気予報で晴れと言っていた。
最近の予報はよく当たるし、今日はきっと晴れるよ」
と言ったとします。これを分解すると、
「朝の天気予報で晴れと言ってた」(根拠)
「最近の天気予報はよく当たる」(論理)
「今日はきっと晴れる」(結論)
となります。聞き手が「朝の天気予報で晴れだ」という根拠を信頼し、「最近の天気予報はよく当たる」という論理に納得したとき、そこではじめて「正しい」と感じるわけです。
慣れないうちはちょっとくどく感じるかもしれませんが、他人を「人情」でも「仁義」でもましてや「馴れ合い」でもなく、「正しさ」で説得するためにはこのモデルがすべてのコミュニケーションの基本になります。
少なくとも私が『トラブル』にまで発展してしまったプロジェクトにおいて、お客さまを納得させ、炎上を鎮火させるのにこの手法以外の一切を用いていません。
他の手段を用いれば成功率はギャンブルと言えるほど下がってしまいますし、この手段で成功しないのであればそもそも論理的な技量が不足しているだけです。
そして、こうした手段はお客さまを説得する際にももちろん活用できますが、それよりももっと大事なのは
部下やメンバーから納得を引き出す
際です。
今のご時世「いいから俺の言ったとおりにヤレ」と言うやり方で押し付けても、大半の人材は愛想をつかしてしまうだけです。仕事としてさせなければならない/しなければならないことなのは確かですが、その仕事を"遂行してもらう"最大限の努力として本人たちの納得を引き出す必要があります。
重要なのは『説得』ではなく『納得』です。
自分の意見を押し付けようとして相手が不満を持ったままやらせるのではなく、きちんと情報を与えることによって相手が納得して意欲的になってもらうことです。
そのために「根拠」を示し、「論理」で補い、「結論」を伝える。
すっきりとこの構造が当てはまる話ほど、聞き手には論理的で正しく腑に落ちて聞こえます(ただし、当たり前の論理は省略も可)。
これは世界のどこに行っても当てはまるデファクトスタンダードです。
だからこそ、これさえ押さえておけばどんな相手であっても(たとえ相手がカリスマであろうが大統領であろうが)「私の話は正しい」と胸を張って主張できるのです。
「私の話は正しい(と思っているだけ)」
と言うのは子供の論理です。
思うだけで正しくなるのなら世の中の全員が正しいのでしょう。
そうではないから客観的な根拠が必要になるのです。
まず大事になるのは「根拠」
しっかりとした「根拠」を用意することが「内容の正しさ」の伝えるための土台となります。では、どういう「根拠」が聞き手に信頼されるのか。有効性でランク付ければ、次のようになります。
Aランク:聞き手がすでに信じているデータや意見
Bランク:「権威」あるデータや意見
Cランク:自分なりのデータや意見
たとえば、若者に人気のある動画アプリを使用しての商品プロモーション企画を会議で通したいとします。この会社では動画アプリを利用してのプロモーションは初めての試みです。そこで「今、もっとも大衆に影響力を持っているのは動画アプリだ」という意見を根拠に関係者にプレゼンするとしましょう。
この際、同じ「今、もっとも大衆に影響力を持っているのは動画アプリだ」という説明であってもどのランクの語り方をするかで説得力が変わってきます。
まず、Cランク。
「私の考えでは」という意見や「私の調べでは」というデータは、それ以外に根拠がない場合以外は避けた方が賢明です。もちろん全くダメなわけではありませんが、仕事などでのシビアな説得の場合、根拠のそのまた根拠が求められるのでそれについての入念な準備を覚悟する必要があります。
ただし、話し手自身に実績や立場があり、一種の「権威」になっていればその限りではありません。先の例で言えば、提案者が社内でも有名なヒットメーカーであれば、細かく根拠の根拠を説明しなくても結構な確率で聞き手も「なるほど」と思うでしょう。
そう、「権威」が大事なのです。
そこで次にBランクの根拠。
出どころに「権威」があればその根拠は説得力を持ちます。データ1つとっても「これは私が調べたデータなんですが~」よりは、「○○研究所の調べによると~」のほうを聞き手は信用するのです。だからこそ専門機関のデータ、その業界で当てにされているデータ、専門家や実績ある人物の意見などは積極的に利用していきましょう。
ただし、この際に気を付けなければいけないのは、あくまで聞き手にとっての「権威」であること。例で言えば、あなたがいくら「〇〇エレクトロニクス社CEOの××氏」を尊敬し「権威」だと考えていようとも、聞き手が「スゴイ人物だ」「カリスマだ」と感じていなければ意味がありません。自分の価値観の押し付けは根拠をより浅く感じさせるだけです。
そのためにも、聞き手の考え方と普段の言動については、事前に可能な限り把握しておくべきです。
そして、ベストなAランクの根拠について。
聞き手自身が調べたデータや聞き手自身の意見を根拠にすれば、聞き手から「その根拠は信じられない」などと言われることはありません。
例で言えば、「今、最も影響力を持っているのは動画アプリ」というのが社長自身の意見ならその根拠に異論が出るはずがないのです。「根拠」というと、なにか目新しいデータや意見を持ち出したほうがいいように思われがちですがそれは誤解です。むしろ、すでに相手が信じているデータや意見からこちらの言いたい結論を導き出したほうが確実性があるのです。
だからこそ、国家間の交渉や巨額の資金が絡むシビアなビジネスの交渉では、相手の情報分析にかける時間やお金を惜しみません。相手の考えに沿った強力な「根拠」を提示し、あたかも相手に主導権を渡しているかのように装いながら自らの利益へ誘導していくやり方こそ、ベストな交渉の進め方だからです。
次に大切なのは「論理」
やや抽象度の高い話が続きますが、次に「論理」。
いくら強い「根拠」があっても「それがなぜ結論につながるのか?」という「論理」がなければ、聞き手を説得することはできません。
最近では「根拠」を英語にした「エビデンス」という言葉がある種の流行語のようにビジネス界隈で流通し、しっかりとした根拠さえあれば説得できるという一種の誤解が蔓延しています。
しかし、どんな根拠もそれを結論につなげる「論理」がなければ無力です。
たとえば、あるお店では購入後二週間経つと返品できなくなるルールを設けていてそのことをレシートに書いてあったとします。それを知らないお客さまが三週間後に返品しようとしたため、お店の人がこう言ったらどうなるでしょうか?
×「購入いただいてから三週間経っておりますので、
申し訳ございませんが返品はお受けできません」
根拠はしっかりあります。「(購入後二週間経つと返品できなくなるのに)もう三週間経ってしまっている」というものです。先の例でいえば、Bランクに入る法的な権威のある根拠です。
しかし、その根拠はお客さまに伝わっていません。
そのため、お客さんは言われていることの意味が分からずに「なんで?」と聞き返してくるでしょう。そこで、お店の人は相手の立場に立ったうえで「根拠」と「結論」をつなぐための「論理」を補い、こう言うべきです。
〇「購入いただいてから三週間経っております。
当店では、二週間以上経った商品は返品できないことになっており、
レシートにも記載されておりますので申し訳ございませんが、
返品はお受けできません」
この説得を分析すれば、このようになります。
根拠:「その商品は買って三週間が経っている」
論理:「契約上、二週間が経過した商品は返品ができない」
結論:「だから、返品できない」
大事なことなので何度でもいいますが、「正しさ」による説得のためには「根拠」だけあってもダメ。「論理」によって「根拠」と「結論」を橋渡しする必要があるのです。
ただし、この「論理」という要素が厄介なのは、
日常会話ではよく省略される
ところです。それがお互いにとって当たり前のものであればあるほど「論理」はいちいち口には出されません。そのため、ほとんどの人は「論理」を意識化する習慣がついていないのです。
そして、この習慣がないことこそ、日本人が議論に弱い理由ともなっています。
たとえば、
「この企画は画期的だから、採用しよう」
という言い分にも「論理」が省略されています。
本当の内容は、
「この企画は画期的だ。
(画期的なものは採用すべきだ。)
だから、採用しよう」
なのです。このカッコ内の「論理」を意識できていない人が多い。
だからこそ、こういう発言をしたときに、相手に「「画期的なものを採用すべきだ」とは限らないのでは?」などと「論理」について反論されると、不意打ちを食らったかのように固まってしまう事態に陥るのです。自分がそんな「論理」を語っていたなんて自分でも分かっていなかったからです。
そして、弁論術を身につけた欧米エリートが議論に強いのは、この「論理」を意識することを徹底的に叩き込まれているためだとも言えます。この辺を細かくするととにかく日本人は嫌がります。
私がメールで長文を書くことが多いのはまさにこの流れに沿っているからですが、だとしても多くの人は「正しいか、正しくないか」と言う観点ではなく「読みたいか、読みたくないか」と言う観点で否定します。
だからと言って本当に大切な論理まで省略してしまうと、
「根拠は?」「何のために?」「俺はそうは思わない」
とネガティブな否定しか返ってきません。
とかく日本人は利己的で我儘なのかもしれません。
ビジネスの場で説得や議論で「論理」を見失わないためにも、まずは日常会話のレベルから「論理」を意識するクセをつけることが重要です。
「この猫はかわいいから、飼おう」という意見を聞いたら、「この猫はかわいい。(かわいいものは飼うべきだ。)だから飼おう」なのだと意識する。
「その日は毎年雨だから、今年もきっと雨だよ」という意見を聞いたら、「その日は毎年雨だ。(毎年雨なら今年も雨だ。)だから、今年も雨だ」なのだと意識する。
「彼の給料を上げたんだから、私のも上げてください」という意見を聞いたら、「会社は彼の給料を上げた。(同じ境遇の人間は同じ待遇を受けるべきだ。)だから、私の給料も上げるべきだ」なのだと意識しましょう。
こうした思考プロセスに慣れていない人にとってはなかなか大変だとは思いますが、この「論理」を意識化する習慣だけで、他人を説得する能力は別次元になります。
では、実際のところ、説得のためにはどういう風に「論理」を語るべきか?
ルールは二つだけ。
常識的な「論理」を使う。
「論理」が非常識な場合は、はっきり説明する。
まず1つ目。
論理は、基本的には誰でも知っているような当たり前のものを使わなければなりません。双方で共有できる「常識」でなければそれは常識となりえず、一方通行のローカルルールでしかないからです。
そう言うと、小難しく感じるかもしれませんが要はとてもシンプルです。
論理はそもそも省略されがちだと書きましたが、逆に言えば省略しても問題ないほどごくごく当たり前の常識を用いるのが良いのです。
たとえば上司が「部下が顧客に見せる資料」をチェックして、こう言ったとします。
「見やすい感じでまとまってるね。これでいこうか」
この言い分を分析すれば、
根拠:「この資料は見やすい感じでまとまっている」
論理:「見やすい資料を顧客に見せるべきだ」
結論:「だから、この資料を顧客に見せるべきだ」
となり、ここでの「論理」は「見やすい資料を顧客に見せるべきだ」という当たり前のものになります。「見やすい資料を顧客に見せるべきだ」という考え方に異存がある人はなかなかいないでしょう。
しかし、たとえば一方で部下のプレゼン資料を見てこう言ったらどうなるでしょうか?
「見やすい感じでまとまってるね。でもダメだよ、これじゃ」
部下も「え?」となるでしょう。
何がダメなのか知りたいはずです。
この言い分を分析すると、
根拠:「この資料は見やすい感じでまとまっている」
論理:「見やすい資料は顧客に見せるべき“ではない”」
結論:「この資料を顧客に見せるべきではない」
となり、背後にある「見やすい資料を顧客に見せるべきではない」という論理が聞き手にとって未知のものになっているからです。その背景にある理由を教えられなければ非常識にしか聞こえません。
そこで2つ目に"ルール"が大事になってきます。
「論理(理屈)」が非常識な場合は、ハッキリと納得できるように説明する
です。この上司が「見やすくまとまってるね。でもダメだよ、これじゃ」と一見非常識なことを本気で言っているのなら、上司は部下に対してその論理にはっきり説明を加え、納得を与えるべきです。
たとえば
「今回の顧客は見やすさより、多少見にくくても
データがたくさん載ってるような資料を求めるタイプなんだよ」
と付け加えれば、部下も「そういうことか」と納得するでしょう。
まとめ
ここまで説明してきたように、
①「内容の正しさ」による説得のためには「根拠」と「論理」が必要
②「根拠」には相手がすでに信じているデータや意見を出すのがベスト
③「論理」は常識的であればあるほどよい
このことを意識して論理的な文章を構築できる能力を身に付ければ、あらゆるビジネスシーンで相手に安心感を与えられるようになります。
元々、「アルゴリズム」と言う論理の塊を取り扱ってきた私たちIT業界人にとって論理的な表現が苦手なはずはないのです。長く続けていればいるほど、好き嫌いは別として得意ではあるはずです。
もしそうでなければ、おそらく通常のソフトウェア開発においても物事の『正しさ』を証明することができず、不良件数が多かったり、トラブルばかり起こしていたりするはずです。そしてトラブルを起こしておいてその解決策の提示もできずにお客さまと頻繁に揉めていることでしょう。
ビジネスにおいて、相手の納得を得るのであれば、
「人情」や「仁義」
によって行うのではなく、
「論理」と「根拠」
によって行われなければならないのです。
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