時間をマネジメントできなければ、なにもマネジメントできない
ドラッカーの言葉にもありますね。
組織に働く者は、成果には何も寄与しないが、無視することはできないという種類の仕事に時間をとられる。膨大な時間が、当然に見えながら、実はほとんど役に立たない仕事、あるいはまったく役に立たない仕事に費やされる
ドラッカーには、時間に関する名言が多いんですよね。
まぁ、全ての原資の中でも、「時間」ほどコントロールが難しいものはありませんから、これをマネジメントできなければなにもマネジメントできないので、当然といえば当然です。時間のマネジメントこそ、仕事ができるようになるための第一の条件であると言っても過言ではありません。
この理由の一端については、いずれどこかで説明したいと思います。
世のため人のためにせよ、優れた財・サービスを提供するためにせよ、仕事を生産的なものにして共に働く人たちが充実した仕事をできるようにするためにせよ、何をするにしてもすべて「時間」を必要とします。
予算(コスト)は場合によって一切必要としないケースもありますが、時間はそうはいきません。常に、限られた時間的リソースの減算方式によってしか、目的は実現できないのです。
時間のマネジメントは、ありとあらゆる自己実現の大前提といえるでしょう。時間は
買えない
借りられない
ストックしてもおけない
しかも、その時間は、万人等しく1日に24時間しか与えられておりません。そして、一般的にはそのうち3分の1を眠っていると言われています。人生90年あるとすれば、内30年は眠って過ごしている計算となるわけですね。のこりたった60年しかない時間的リソースを、「いつ」「どのような形で」使い、消費するのか、考えている時間も消費し続けますし、考えずに行動して失敗ばかりしていても、やはり平等に消費していくこととなります。
そこで文字どおり、眠る時間を削って働いている人もいれば、より無駄を省き、失敗しないために勉強している人もいるわけです。
けれどもドラッカーはこうも語っています。
成果を上げる者は、仕事からスタートしない。時間からスタートする。計画からもスタートしない。まず、何に時間がとられているかを知ることからスタートする。次に、時間を奪おうとする非生産的な要求を退ける。そして、得られた自由な時間を大きくまとめる。
もちろん、この3つのステップだけで時間を使いこなせるようになるわけではありません。ステップを踏んだうえで、さらに頭を使わなければならないからです。
時間の使い方を知っている者は、考えることによって成果を上げる。行動する前に考える。繰り返し起こる問題の処理について、体系的かつ徹底的に考えることに時間を使う。
つまり、未来を具体的に予測し、さらに予測通りにいかなかった場合(リスク)に対しても具体的な活動を予測(対策案を検討)し、それでもうまくいかなかった場合のための保険(リスク影響の疎結合)まで視野に入れようということです。
ですが、それができません。
"やる気"がないからです。
結局のところ、何をするにしても、その気が有るか/無いかが最初のハードルになってきます。そして"やる気(モチベーションとはちょっと違う)"という意識がはたらかない限り、マネジメントの基本理念を修得することは絶対にできません。
なぜなら、「やる気がない」と言うことは、行動を起こすきっかけがないということであり、行動そのものが起こりません。行動に起こさないということは、結果が必ずゼロになるということだからです。
そして、必要があると理解したうえで、それでもやる気が起きない最大の要因は、いつの時代も
『めんどくさい』
と言う理由でしかありません。行動を「起こさない」という結論に対しては、高尚な理由も、そうならざるを得ない事情も大抵の場合は存在することはありません。どんなに言い訳してみても、突き詰めていくと結局、主観的な好き嫌いという感情によって「面倒だから」やりたくないという結論に達します。ビジネスにおいては特にそうです。
通常、ビジネスである以上、「Aという行動は起こさない」という決断をすることはあるかも知れません。ですが、それは「Bも、Cも、Dという選択肢も、…なにも起こさない」という理由にはなりません。ビジネスは常に動き続ける以上、与えられた時間が有限である以上、常に何かを選択し、行動に移すことが必要になります。だからこそ、その中で
「なにもしない」
というのは、それほどまでに異様なことです。労基法にしたがって言うなら何もしないのは「労働時間」とはみなされませんし、「働かざる者、食うべからず」の精神に則っても、やはり『なにもしない』という決断はびっくりするほど異様です。
どんなに能力が高い人間でも、何も行動に移さない人は絶対に結果を出せません。だから、能力の高低だけで人を評価すると、多くのシーンで誤った結果がついてくるのです。
たとえば、上記のような仕事の「能力」のピラミッドがあったとします。あくまで潜在的な能力です。「やれば」そこまでできるというものです。
では、Lv.6を"100点"、Lv.1を"10点"だと仮定した場合、「なにもしない」人は、何点になるでしょう。そう
0点(能力(n点) × 実績(ゼロ))
です。ゼロには何をかけてもゼロです。この不変の真理を変えることは誰にもできません。その場から動かないと言うことは、絶対に経験を積まないと言うことであり、経験を積まないと言うことは、絶対に成長しないと言うことです。
汝自身を知れという昔からの知恵ある処方は、悲しい性の人間にとっては、不可能なほどに困難である。だが、その気があるかぎり、汝の時間を知れという命題には、誰でも従うことができる。その結果、誰でも貢献と成果への道を歩むことができる
おそらくは多くの社会人がドラッカーの言うところの「悲しい性の人間」なのでしょう。皆が皆、その気があれば一角の経営者しかいなくなってしまいます。
しかし、実際には数万、数十万の企業に経営層は数人~十数人しかいません。残りは全て労働層です。だれでもできるはずの、この「やる気」を出すことが、意外なまでにどれだけ困難なものかが、この差からもよくわかります。
人を評価する時、多くは「数値的実績」、次いで「能力」をベースに評価しようとします。なぜか「行動プロセス」については誰も評価しません。
だから、「やる気があったかどうか」「行動を起こしたかどうか」、そしてその行動において「時間の使い方は正しかったかどうか」については誰も評価しようとしませんし、わかりません。誰もわからないので当事者たちでさえ相対比較することもできず、自分で自分を評価することもできていない人が多いでしょう。
ですが、最初にも説明した通り、「時間」という原資は万人に平等に与えられていて、行動を起こし、その時間を有効に活用すればしただけ成果が出るはずです。
これを「成果」という一側面から見ると、必ず弊害が発生します。
たとえば、実績しか見ない企業では
誰かに丸投げして負担をかけさせ、自分では「なにもせず」、
成果だけを自分のものとした
場合であっても評価してしまいます。しかも、評価された当人は、何一つ能力は向上していないし、会社に貢献していません。時間を有効活用したわけでもないし、何なら働いてすらいなかったかもしれません。でも、会社は評価します。
もしもこのケースで「能力アリ」と判断されて昇進したとしましょう。丸投げされた真に能力があり、実績があった"誰か"はその人の部下になるかも知れません。その"誰か"は本当にそれを喜ぶでしょうか。会社の「人を見る目」のなさに辟易して、離職したりしないでしょうか。それは本当に会社にとって良い選択と言えるのでしょうか。
すべての評価が「時間」をベースに「どのように有効活用しているのか」という視点で評価できるようになれば、あるいは一人ひとりが自らの責任と役割に従って「時間をどのように使うべきか」「使わせるべきか」という視点から見ることができるようになれば、
最も効率的な仕事の仕方
最も無駄の少ない仕事の進め方
を確立するために一挙手一投足を管理、コントロールしていけるようになることでしょう。
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