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僕のアメリカ横断記①(出発の地サンフランシスコ)

【はじめに】このnoteは、2011年の夏に筆者がアメリカ横断の旅をしながら書いていた日記に加筆と修正をしたものです。走り書きの日記を元にしているため不正確な部分があったり、年月の経過により現在とは異なる箇所もあるかと思われます。実際に旅行をされる際は最新情報をご参照ください。それでは長旅になりますので、コーヒーでも片手にゆっくり楽しんでいただけますと幸いです!




■2011年8月21日(日)
 あと15分ほどでロサンゼルスに到着するというアムトラックの車内アナウンスが流れたので、急いでラップトップPCを開いてこれを書いている。今日の宿はまだ確定していないので、ゆっくり文章を書く時間がとれるかもわからない。
 今朝まで僕は、サンフランシスコはサンノゼの伯母さんの家に厄介になっていた。

 大学1年生の夏。安定志向の親の熱心な勧めで法学部に渋々進学した僕は、案の定というべきか、早くも大学生活に嫌気が差していた。
 この"人生のモラトリアム"をもっと有意義に使えないものだろうか?この頃の僕は教授の講義をBGM代わりに、大教室の片隅で頬杖をつきながらとりとめのない思いを巡らせていた。そうしていると、親の敷いたレールの上を何も考えず疾走していた過去の自分が、ぜえぜえと肩で息をしながら今の自分に問いかけてくる。
 「お前は将来、何がしたいんだ?」「どんなふうに生きたいんだ?」「心の奥底で、どんなことを考えている?」
 ・・・その問いに答えるには、自分の内面にできるだけ深く潜るための長い時間と、孤独な環境が必要だった。日本でこれまで通りに大学生活を送っていたのでは、日々迫りくる圧倒的な「日常」の力に押されて、自分の精神世界に入り込むことは(少なくとも僕にとっては)困難に思えた。
 では、どうすればよいのだろう?日本からしばし離れ、長い時間と孤独を得るためには・・・。
 あれこれ悩んで辿り着いた結論は、バックパッカーとしてアメリカを横断することだった!
 今思えばいかにも青臭い思いつきだが、実はアメリカという国とはちょっとした縁があった。僕にはアメリカに若い頃から移住している母方の伯母がおり、小学生のときに母に連れられてサンフランシスコの伯母夫妻の家を訪ねたことがあったのだ。それにサンノゼといえば、アメリカを代表する巨大IT企業が密集する世界都市だ。そうして幼少期からアメリカの華々しい繁栄を目の当たりにしていたおかげで、「あのアメリカに飛び込めば自分の何かが変わるかもしれない」という感覚を腹の底に持ち続けてきたのだった。

 旅の大まかな計画としては、サンフランシスコを出発点とし、アムトラックという鉄道に乗って各地で下車しながら、終点・ニューヨークまで向かうというもの。色々と下調べを進めていくと、アメリカの国土は想像よりもはるかに広大であることがわかった。サンフランシスコからニューヨークまでは実に4000km以上、飛行機でも6時間はかかる。その距離をあえて鉄道で行こうというのだ。有り余るほどの時間と申し分のない孤独が僕に与えられることだろう。
 この計画を両親に相談したとき、父は何も言わなかったが、母にはずいぶん反対された。母は一人っ子の僕を玉のように育て、厳格だった父の躾からよく守ってくれたものだった。そんな母を説得するのは大変だったが、最後は「やれやれ」といった様子で送り出してくれた。
 「19歳はもう大人だもんね」
 母は寂しそうに、そんなことを言った。
 伯母さんも母の姉なだけあって、同じくらい心配性なひとだ。母が僕に持たせた伯母さん宛の手紙を渡すと、庭のベンチでそれを読みながら静かに泣いていた。その手紙の内容を、僕は今でも知らない。
 昨晩の夜、その伯母さんが手間をかけて作ってくれたテールスープが食卓に並んだ(母も日本でよくテールスープを作ってくれた)。僕ははじめての一人旅に対する不安と緊張で数日前から胃に不調をきたしており、牛脂がたっぷり浮いたスープは正直重たかったが、伯母さんの気持ちが嬉しくて、残すことなく食べた。にんにくがしっかり効いていて、気力が湧いてくるようだった。

伯父さんと伯母さんに可愛がられていたマギー

 今朝は早い時間に起床し、近所で買った"超"大容量の赤いリュックに荷物を詰め込んだ。旅慣れしていないものだから、いくら確認しても何か忘れ物があるような気がする。衣類、日用品、ラップトップ、スマートフォン、パスポート、お金、そして、『地球の歩き方 アメリカ』。この頼もしいガイドブックは、アメリカに来る飛行機の中でも夢中になって読み耽り、旅の計画を立てるのに大いに役立った。
 アムトラックの出発時間が迫り、僕と伯母、そして車を運転してくれる伯父が連れ立ってバタバタと家を出た。伯父は車に乗り込むなり、ナビに駅名を入力していた。最寄り駅までの行き方がわからないということは、よほど電車を利用しないということだろう。シリコンバレーの大手日系企業に勤める伯父は、僕がニューヨークまでアムトラックで旅をするのだと伝えると、「理解できないよ」と首を振った。
 「ニューヨークに行きたいなら、飛行機に乗ればいいじゃないか!安全だし、ずっと早く着く」
 残念なことに僕の拙い英語力では、今回の目的がただの「移動」ではないということをうまく説明できなかった。

 到着したサンノゼ・ディリドン駅は古めかしいホテルのような外観で、係員が老人ばかりなのが印象的だった。待合スペースでは数人の老若男女が自分の列車の到着をじっと待っていた。
 伯父が窓口で、事前にウェブサイトで購入していたUSAレイルパス(=アムトラックに乗るための引換券で、料金ごとに定められた一定期間に一定回数乗ることができる)を提示し、サンノゼ→ロサンゼルス間の乗車券を手配してくれた。僕が購入したパスは、15日間で8回まで乗れるというもので、乗車券は各駅の窓口で別途入手しなければならない。「そのパスは飛行機でいうパスポートのような物だから、絶対になくしてはいけないよ!」と何度も念を押された。
 列車は10時にサンノゼを発つ予定だったが、丸々と太った老係員が、運行が1時間遅れていることを待合スペースにいる旅人たちに告げた。ネット上では「アムトラックは遅れやすい」とよく書かれていたが、まさに第一便目でその洗礼を浴びることになったわけだ。
 伯母は一緒に待つと言ってくれたが、それも申し訳なかったので、一人で待つから大丈夫だと伝えた。僕らは駅の外に出て、二人と固くハグをした。伯母は目に涙を浮かべて、「とにかく気を付けるのよ」と言った。車の後部座席でこちらを振り返って手を振っている伯母がだんだん遠ざかり、ついに見えなくなった。
 ひとりになった僕は、サンノゼの朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。駅舎に踵を返したその一歩が、アメリカ横断旅行の本当のはじまりだった。

 待合スペースで時間を潰し、老係員に呼ばれてプラットホームで待つことさらに20分。鉄の塊のような巨大な列車がゴトゴトと轟音を立ててこちらへ向かってくる。ネットや『地球の歩き方』で何度も見ていたあのアムトラックの実物を目の当たりにして、妙な感動を覚えた。
 列車がゆっくり停車すると、巨体の乗務員が降りてきて、乗客が見せるチケットを切っていった。そのすぐ後ろで若い乗務員が待機しており、アムトラックは二階建てなので、自分の座席が上下前後のどちらにあるかを示してくれる。行き先を訊かれたのでロサンゼルスだと告げたら、「LAX」と書かれたピンク色の紙きれをくれた。僕の座席は二階で、少しワクワクしながら急な階段を上がっていくと、思っていたよりもゆとりのある車内空間が目の前に広がった。

アムトラックの車内

 自分の席に座ってみると、リクライニングもかなり倒せるし、フットレストをあげればベッドで寝ているのに近い状態にもできる。区間によっては列車の中で夜を明かす場合もあるので、少し安心した。そして事前に調べていた通り、コンセントのプラグが2口ついていた。今回の旅は移動時間が非常に長いので、充電を気にせずパソコンやスマートフォンを使えることがとても重要なのだ。
 列車が機械仕掛けの巨獣のように動き出した。10日ほどを過ごしたサンノゼの街並みが遠ざかっていく。僕はリュックからコミック本を取り出した。従兄が連れて行ってくれた書店で買ったチェ・ゲバラの伝記漫画で、これを教材に列車の中で「にわか英語学習」をするつもりだったのだ。
 あっという間に車窓から町の姿が消え、青々とした山岳風景になった。景勝地に差しかかると解説の車内アナウンスが流れるのだが、そのアナウンスを十分に理解できない自分の英語力がもどかしく、再びチェ・ゲバラと格闘するのだった。

購入したチェ・ゲバラの伝記

 そうこうしながら、時間が過ぎていった。少々腰や尻が痛くはなるが、途中停車する駅のホームに降りて屈伸でもすればどうということはない。また、車内をうろうろ探索していると、展望車両があることを知った。普通車両とは異なり、壁面を覆うようにガラス窓が張られていて、一人掛けのゆったりとしたシートがいくつか並んでいる。僕が覗いたときはすでに多くの乗客で溢れていたので、いったん座席に引き返した。

 16時頃に、若い係員が僕の座席にやってきた。アムトラックでは夕食が予約制になっているようで、食堂車で食事をとるなら時間を教えてくれということらしかった。「17時と17時15分、どちらに来られますか?」と言う。(17時からとはずいぶん早いんだな)と思ったが、とりあえず15分の方にしておいた。実は伯母が持たせてくれた手作りのサンドイッチを食べたばかりであまり腹が減っていなかったのだが、食堂車で食事をとるという経験を早くしてみたかったのだ。
 食事の時間を告げるアナウンスが流れ、食堂車両に向かった。空いていた4人掛けのテーブルに座ってメニューを読んでいると、対面に人の良さそうな白人のおじさんが当たり前のように座ってきた。(他に空いているテーブルがあるはずなのに・・・)と思ったが、これがアメリカ流なのかもしれない。郷に入れば郷に従え、だ。とりあえずお互いに「Hi」と言って、微笑を交わしたが、僕の英語力ではそれ以上こちらから話題を提供することはできない・・・。沈黙から逃れるようにメニューに視線を戻すと、一番安いのはベジタリアン用のパスタで、14ドル。一番高いのは「肉屋が選んだ肉のステーキ」というやつで、24ドルだった。すると、ヒスパニック系のおじさんが親しげに「Hi, Guys!」と僕らに言いながら、また当たり前のように対面の空いた席に座った。この新しいおじさんと白人のおじさんは知り合い同士なのかと思ったが、どうやらそういった様子もない。しかしおじさん二人はすぐに打ち解けたらしく、楽しげに色々なことを語らいはじめた。僕にも時折話を振ってくれるのだが、簡単な内容を除いてはうまく理解できずに困った。とにかく、「日本から来た者です」と伝えてみると、3月の東日本大震災のことをずいぶん気遣ってくれた。
 ルイ・アームストロングそっくりのおばさんが注文を取りに来た。メニューを指さしながら料理を説明してくれるのだが、その中で「ラザニア」という単語が聞こえた気がしたので、それを注文すると、ずいぶん待たされて出てきたのはあの一番安いベジタリアンパスタだった。別にまずくはないのだが、ソースに含まれているオクラのような謎の食材が、食べてみるとモソモソとした食感で不気味だった。
 白人のおじさんから旅程について尋ねられたので、「アメリカの有名な町をいくつか経由しながら、ニューヨークまで行くんです」とたどたどしく伝えた。おじさんはそれを聞くと、「親切にしようとする人がいても、簡単に信用してはいけないよ。特にニューヨークは善い人ばかりじゃないからね」と言った。それは、サンノゼで伯父が僕にしてくれたのと同じ助言だった。行きずりの旅人にそんな言葉をかけてくれるこのおじさんこそ、きっと「善い人」なのだろう。
 ちなみに、僕以外の二人はステーキを注文していた。プレートが運ばれてきたときは少し羨ましかったが、肉が相当かたいらしく、おじさん二人がナイフとフォークで四苦八苦していた。どうやらアムトラックの食事の質にはあまり期待を抱いてはいけないらしい。

 おじさんたちに別れを告げて、座席に戻る。
 陽が沈みかけており、車窓から見える景色も山脈や渓谷ではなく、ちらほらと中古車の販売場や会社のビルらしき建物が見えはじめていた。 僕はチェ・ゲバラの世界からはいったん離れて、しばしスマートフォンの野球ゲームに没頭した。「自分の内面に潜るための旅」なのだからゲームなどしている場合ではないのだが、サンノゼ駅からロサンゼルス駅までは実に9時間以上。少しはこんな時間も必要だ。
 そして場面は、冒頭の車内アナウンスに戻る。11時に乗車し、到着したのは20時半だった。新鮮さからか意外と時間はすぐに経ったが、暫定的に決めている旅程のうち、フラッグスタッフ→カンザスシティ間はなんと24時間かかる見込みで、まだまだ序の口といったところ。数字でのみ把握していたアメリカの国土の広さを、この身をもって体感することになりそうだ。

その②へ続きます】


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