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須田光彦 私の履歴書①

宇宙一外食産業が好きな須田です。

6月の10日から久々の投稿です。

この間、体調を崩すこともあり、コロナではなかったのですが、心理的にもつらい状態になり、色々とありました。

仲間の間では鉄仮面の様に思われていますが、私も人の子、体調を崩すことも落ち込むこともあります。

打合せの予定を何本かキャンセルもしてしまいました。

この期間に考えていたことがあり、それは、長年自分自身をも、お客様をも悩ましていたことですが、自分自身の在り方についてです。

28歳で独立してから46歳で倒産するまで、一貫して質問されたことは、
「須田さんは一体何屋さんなの? なんでそんなに色々と知っているの?」

設計事務所の社長として私とあった方はコンサルが出来ることに驚き、コンサルとして出会った方は、何故専門的な設計が出来るのかが不思議なことでした。

私にとっては当たり前のことが、世間一般の仕事のカテゴリーの認識をまたいでいるので、このような質問を沢山されました。

最近は時代の多様性と共にこの質問は随分と減りましたが、なぜ飲食に関して、多くの事柄が対応出来るのかが不思議なようです。


そこで、考えたのですが、少しの間、私自身について開示していこうかと思います。

自分自身の回想録を書こうかと思います。

どのような背景があって今に至ったのか、どこでどのような考えと行動をしてきたのか。
別に誰かの役に立とうとも思わない記事を、何回かに分けて書いていこうと思います。

時代の大きな変化の中で沢山の経験をしてきました。
それは間違いなく皆さんも同じだと思います。

その中でも、ちょっとだけ違った経験をしてきたので、今の自分があると思います。

私の回想録などつまらないと思いますので、興味のある方だけ読んでみてください。

おすすめはしません。(笑)

さて、私は昭和37年、屈足で生まれました。
当時は村だったのかなぁ、とてもとても小さな集落でした。

ところで、読めますかこの町名、「くったり」と読みます。

今同級生がこの町で、「さんたり屈足」という宿泊施設を経営しております。

Booking.comさんより何度も連続で最高評価を受けている宿です。
一回行ってみたいので、絶対に行こうと思っていますが。

昭和37年は十勝岳が噴火した年です。
家から噴火が、火柱が上がるのが見えたと親に聞いたことがあります。
噴火が6月、私はその年の8月に産まれました。

産まれた時から大変な年だったんです。
噴火の降灰でその年の農業は大変な被害だったそうです。

父親は国家公務員で、昔の林野庁に努めていました。

父親の仕事は作業課というところで、森林に分け入って木を伐採する機械や大型のトラクターの修理を行っている課でした。
いわゆる修理工です。
テレビで見たこともある方もいると思いますが、とんでもない大きさのトラクターとかを修理していました。

修理工としての腕はピカ一で、「帯広の須田さんに見てもらえれば直る」と、北海道中の営林局で言われていたぐらい、凄腕の職人でした。

頑固で真面目な公務員で、定年退職するまで勤め上げました。

当時住んでいた家は公務員官舎で、確か4軒長屋だったと思います。

官舎の建物が何棟か建っていてその間に公園のような小さな広場があったように記憶しています。
この官舎の隣が牧場で、乳牛を飼っていました。

時々、朝起きると家のドアの前にしぼりたての牛乳が、一升瓶に入って置いてくれていることもありました。

ご近所だからと言って、タダで分けてくれた牛乳です。
今考えれば、農協に引き取って貰えなったものを分けてくれていたんだと思います。

乳牛は乳を絞らないと乳房炎という病気になるので、絞った余りなどをお裾分けして頂いたように思いますが、真相はわかりません。

兎に角、絞りたての牛乳が一升もタダでお裾分けされていました。
ご近所さん全てにお裾分けされていましたから、凄い量です。

その牛乳は農家さんから頂いたものですから、当然殺菌はされていません、というかバケツから直接瓶詰されているので藁とかも入っていました。

その牛乳を大なべで沸かして殺菌して、表面に薄~く幕が出来るとそこに汚れもついてきます。
その幕を取り除いてから、お玉ですくって牛乳を飲んでいました。

それはもう美味しいどころではなく、牛乳そのものの味ですから、現代の成分無調整とか低温殺菌とか、そういったことを超越した美味しさです。
本来子牛が飲む、ほぼそのものを飲んでいました。

本当の牛乳の味ですよね、今はほぼ体験できないことと思います。

小学校に入って給食で雪印の牛乳を飲んだときは、これは水だと思いました。
牛乳ではないと、水で薄めた何か牛乳とは違ったものだと思いました。

プライベートでは今でも、牛乳は帯広の四つ葉さんの牛乳しか飲みません。
因みに高校時代は、サッカー部の冬の練習で音更の四つ葉さんの工場まで走っていました。
往復20キロの雪道を走っていましたが、辛い練習でした。

私の身体が丈夫なのは、この牛乳のおかげかもしれません。

三歳までこの家に住んでいました。
少ない記憶ですが、この牧場の奥に小さな用水路が流れていて、綺麗な川だったのですが、2歳のころに川沿いの土手の草むらを頭から川に滑って行き、溺れたそうです。

逆さまになって脚をばたばたさせている私の脚を、母親がムンズと掴んで引き上げたそうで、おかげで死ぬことは無かったそうです。
私は今でも泳げません、この時の経験のせいでしょうか、泳ぎたいと思ったことはありません。


「自然がいっぱいで良いですね!」などというレベルではなく、自然をなめているとすぐ死に直結するような環境で育ちました。

私は2歳ころから記憶が残っていて、ほとんどが映像で残っています。
以前、心理学の先生に脳を検査して頂いたことがありますが、私は得意稀な視覚優位な脳の持ち主だそうで、あらゆることを視覚を通して記憶しているそうです。

ですから、3歳まで住んでいた家も覚えていて引き戸のガラスの模様とか、玄関の土間と上り框とかレイアウトもばっちりと、特徴はトイレが2つあったこと、小便器と大便器、2つありました。

そしてお風呂もありました。

昭和37年当時は、家にお風呂がある家は、相当なお金持ちの家にしかない時代でしたが、公務員官舎だったので、薪を燃やすタイプのお風呂がありました。

4歳年上の姉と一緒に入っていましたが、お風呂に入れるのは1週間に2回程度。
入浴は贅沢なことだった時代です、子供の仕事として薪割をして薪をくべてお風呂を沸かしていました。

水は、雪解け水をひいて飲料水にしているような時代でしたので、夏でも痛いほど冷たかったことを覚えています。

薪割をしたことで刃物が好きになり、特に鉈が好きになり、実はこの刃物好きが講じて今の仕事に結びつきます。

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