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須田光彦 私の履歴書20

宇宙一外食産業が好きな須田です。


いよいよ専門学校も卒業の時期になって進路を決めることになります。

その前に、卒業制作を仕上げなければなりません。
私は、新たなスタイルの幼稚園をテーマにしました。

確かいくつかのテーマが出題されて、そこから好きなテーマを選ぶ方式でした。
私は幼稚園に行っていないこともあり、理想の幼稚園を創ろうと思いました。

自然を体感できること、季節の移り変わりを肌で実感できること、身体を思いっきり動かせること、五感に刺激を与えて情操教育ができることをコンセプトに、幼稚園をプランニングしました。

構造は木造で2階建て、間伐材の無垢材とガラスを多用した建築物でしたが、この卒業作品が最優秀賞を受賞しました。

この数年後に、実際にほぼ同等のコンセプトの幼稚園が埼玉県に作られました。
ニュースで見ましたが、ほぼ同じコンセプトで、盗作かと思えるほど似ていました。

この幼稚園は、今でも人気のようです。

卒業制作を創りながら今後の進路について、自問自答してみました。
自分自身に問いかけてみたところ、まだ飲食業に関することを実戦で役立てるほど、ある程度以上理解したといえるほど体得していないと思い、このまま社会に出るには早すぎると思いました。

そこで、グラフィックデザインの、夜間の専門学校に通うことにしました。
渋谷のある専門学校に申し込みにいきました。

受付の担当の方に話をすると、担当の先生を紹介してくれました。
受講はしたいが、私には大きな問題がありました。

入学金など資金が全くありません。

アルバイトで稼げる額は、生活するだけで目いっぱいの額です、とても貯金には回せません。

そのこと話していると先生が突然、「ところで、須田君の学校で、卒業制作の中に幼稚園の作品があったけど受賞していたヤツ、あれ誰が作ったか知らないかな?」と、聞いてきました。

その作品は自分が作ったことを伝えるとなぜか、来週から学校に通いなさいと言われました。
お金を払えないことも伝えましたが、そこは気にしなくてもいいからと、不思議な回答が返ってきました。

せっかくなのでお言葉に甘えて受講しましたが、入学してわかりましたが、授業で先生が課題を出します、その課題の解説と大事なポイントや注意点を私にさせだしました。

学生証も発行してくれて一応生徒扱いにはなっていますが、どうも講師のように扱われます。

ここで、グラフィックの基本知識を習得できました。

夏休みが過ぎて秋になるころ先生に呼び出されて、

「もう卒業しなさい、学校で学んでいるレベルではないので社会に出なさい。後の手続きとかはこちらでやっておくから心配しないで卒業しなさい」と、言われて半年過ぎたあたりで強制的に卒業となってしまいました。

今思えば、助手のような立場で学校に入れてくれたのでしょうか、今もわかりませんが、兎に角グラフィックデザインの基礎は理解しました。

あくまでもインテリアデザインが基準ですから、グラフィックデザインを極める必要はなく基本的な知識があれば、グラフィックデザイナーと話ができ、指示が出せるようになるまでを習得することが目的なので、そこまでは半年で習得できました。

このころは、吉祥寺の雑貨屋さんで休みなく、開店から閉店までびっしりと働いていました。
夜間の学校がある日だけ早上がりしましたが、びっしりとシフトに入っていました。

当時大学卒業の初任給が11万なにがしの頃に手取りで20万弱は稼いでいました。
生活は楽になりましたが、その代わり休みはありませんでしたが、休みはいらなかったです。

このお店は1階がダイニング関連の商品を扱っており、直属の上司は会社の常務さんでした。
働き出して少しすると、仕入れなどにも同行させていただきました。

当時は珍しいアルミの業務用の鍋なども扱っており、製造工場まで見学に同行もさせていただきました。

ここで、食器関係と厨房備品の流通や仕入れの方法、業界の仕組みを教わりました。

このお店は、自社ビルの地下のテナントに有名な美容室が入っていました。
毎日地下の倉庫に商品の出し入れをしているうちに、お店の方とも仲良くなっていきます。

ある日美容室の店長さんに声をかけられて、カットモデルになってくれないかと誘われました。
カットモデルがよくわかりませんでしたが、要するにただで髪を切ってくれるようなので、二つ返事でOKをだしました。

でも、これが失敗で、毎回とんでもない髪形にされます。
パリコレの奇抜なモデルさんのようなカットと色にされてしまいます。

そして、そこにカメラマンも来て写真を撮られてしまいます。

勿論、そんな奇抜なカットのしかも変な色の頭では仕事に入れないので、すぐに店長さんが普通の頭に直してくれます。

ただとは言え、ひやひやした経験です。

夜間の専門学校で知り合った二つ年上の人がいました。
大学を卒業して今勤め人をしているが、イラストレーターを目指していると言います。

その彼と非常に仲良くなり、ある日仕事を紹介されました。
レタッチという今では絶滅した職業ですが、グラフィックデザイナーが仕上げた原稿を、印刷できるようにフィルムに加工する職業です。

印刷物と印刷の流れ、実戦で使えるグラフィックデザインを学びたくて、その仕事をすることに決めました。

設計事務所に勤めるまで、2年くらいここでお世話になりました。

今は、グラフィックデザイナーに、店舗のパンフレットやメニューブック、店前のポスターなどを発注しますが、この経験がとても役に立っています。

グラフィック業界の専門用語を知っていること、構成や配色などのこと、紙質や納期など、グラフィック関連、印刷関連のことを的確に指示が出来ます。

お客様の普段お取引をしているグラフィックデザイナーや印刷業者の方とやり取りしますが、なぜこんなにも印刷業界のことを知っているのか、よく同じ質問されます。

レタッチをしていたと伝えると、ベテランの方には皆さん納得していただけます。
若いスタッフさんにはなじみのない仕事なので、一から説明をするようにしています。

このレタッチの仕事は過酷で、常に納期との闘いの毎日でした。
会社に寝泊まりして仕事を仕上げていました。

その分収入も一気に増えて手取りで30万ほどを稼ぐようになります。
それまで三鷹のアパートに居ましたが、家を西国分寺に移すことにしました。

引っ越す時には、お隣のパン屋さんにしっかりとご挨拶をさせていただき引っ越しをしました。
この西国分寺のマンションは新築の物件でしたが、2DKの広さで家賃が8万だったと思います。

寮で一緒だった親友が同居することになり、住むところは広くなって家賃は安くなると、言うことのない状況になる予定でした。

しかし、仕事で帰れない日々が続いて、月に三分の一は会社に泊まる生活になりました。

このころは、次は設計事務所と考えていたので、その前に務めるところは給料が高いところに決めていました。

その結果、2年で100万くらいを貯めることが出来ました。

この同居していた友人が、国立のダイニングレストランでアルバイトを始めました。
ある週末に彼がアルバイトをしているお店に、一人で飲みに行きました。

ボトルを入れて、ボトルに当時の矢沢永吉のキャッチコピーを書きました。
それは、「あんた 矢沢好きかい?」というものです、糸井さんのコピーだったような気がします。

すると、この店で働いている女の子が、「永ちゃんは、私の方が好きだからね! 後楽園のライブも見に行ってるからね!」と、いきなり話し掛けてきました。

それまでも何度も冗談を言いながら話していましたが、そんな態度はこれが初めてでした。
でも、同じ永ちゃんファンということもあり、急激に仲良くなりました。

私と同じ年で、話を聞くと結婚していて、ご主人は元自衛官の出版社に勤めている方だと、しかもなんと北海道の釧路出身ということがわかりました。

今度一度みんなで飲もうとなり、初めて国立のドーナツ屋さんで会うことになりました。

初めてご主人を見た時の印象は、「あっ この人は強い!」でした。

元自衛官だけあって、体躯がガッチリとしていて筋肉もしっかりとしています、身長は170センチぐらいですが眼光鋭く、まるっきり格闘家のような方でした、とても出版社に勤めている文化系の方には見えませんでした。


そのご主人が、板垣恵介さんです。


バキの原作者で、今や格闘漫画の第一人者ですが、デビューのずっと前の出会いでした。

初対面から仲良くしていただき、板垣さんの年齢を聞くと私の姉と同い年とわかり、よけいに親しみを覚えました。
デビュー前から、デビューするとき、その後の大成功を見てきましたが、非常に尊敬するクリエイターであり作家であり人物です。

デビュー作となった、メイキャッパーという作品は、私も原稿の仕上げをお手伝いしました。

ある日板垣さんから電話がきて、「すだぁ 間に合いそうにないんだよ 手伝ってくれよ!」とお願いされ、立川のご自宅で作品を仕上げたのを覚えています。

その後も、「すだぁ 名前借りたぞ」と言って来て、メイキャッパーの中に登場する男の名前を「光彦」にしてくれたり、電信柱の質屋の看板の店名が須田になっていたりと、使ってもらっています。

なぜ質屋の名前が須田なのか聞いたところ、「バカお前、質屋は金持ちなんだよ 金持ちにしてやったんだよ」と、冗談で返されました。

初版が出た時には、「すだぁ これ、プレミアがつくぞ!」と、言いながら単行本の裏表紙にサインをしてくれました。
色紙もサイン入りでくれましたが、今も我が家に飾ってあります。

サイン入りの単行本も色紙も、今でも大切に保管してあります。

勿論、私もバキファンですから、当然全巻読破しております、大人買いもしております。

故塩田剛三先生の演武をはじめ、名だたる素晴らしい武道家・格闘家の実演も、一緒に見させていただいております。

バキのモデルとなった、当時すき家の店長をしていた、平選手にもお目にかかったこともあります。


そんな、西国分寺での思い出でした。


この後、レタッチの仕事を辞めて、23歳でいよいよ設計事務所に入ることになります。

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