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須田光彦 私の履歴書⑧

宇宙一外食産業が好きな須田です。

小学校に入学する時は物凄く嬉しかったのを覚えています。
やっと一人で遊ぶことから解放される、友達が出来るとワクワクしていました。

本気で、友達百人出来るかなと、思っていました。


入学式も終わりクラスは1年1組になって、ソワソワする毎日が続いていました。

私が1年生の時に姉は6年生でした。

優秀な姉は児童会長を当然の様にやっており、学校中で知らない先生も児童もいない、そんな存在でした。

晩年母から聞いた話ですが、姉が小学校4年か5年の時に、ある先生が道理の通らないことをしでかしたそうで、納得できなかった姉は職員室に乗り込んで抗議をしたそうです。

そこで、先生の言うことをことごとく論破して、謝罪させたエピソードがあったそうです。
それくらい弁も立ち、頭も良かった姉です。

そうなると、大人たちは勝手な想像を膨らませます。

あの優秀な姉の弟が入学してきからには、きっと同様に優秀なんだろう、
顔を見に行こうとなり、毎日違う先生が教室に来ては私に声をかけて来ます。

他の生徒たちは、子供ながらに一体コイツはなんなんだと不思議がられ、
当の私はそれが本当に嫌でした。

それでなくても4歳ごろから近所のおばさんの与太話の話題にされてきたので、小学校になってまで比べられることが嫌で嫌で仕方なかったです。


姉はそんな私を小さいころから気遣ってくれて、よく遊んでもくれました。

そんな、段々と小学校の生活にも慣れてきたある時、私は大事件を起こしてしまいます。

小学校の正面玄関の前に、道路を挟んで小さな物置が建っていました。

少し傾いていて、ガラスが所々割れていて、どう見ても廃虚にしか見えない物置でした。
当時はまだ道路が舗装もされていない時代でしたが、たまたま走り去った車が道路の石をはじき飛ばして、この物置のガラスが割れました。

その光景に、教室のゴミを捨てる時に出くわしてしまい、ガラスが割たことが快感で、なんと小学校の敷地に敷かれている石を投げて、ガラスを割る遊びを初めてしまいました。

建物にあたる時はつまらなく、ガラスが割れるとスカッとしましたが、当然凄い音がします。
生活指導だったと思いますが、そういったことを担当する怖い先生って必ず学校に一人はいますが、案の定その先生が飛び出してきて、「こらー貴様 何やっとるんか!」で、ゴンですよ。

言うのが早いか、げんこつが早いか、間違いなく殴られてから怒られましたが。

その後はこっぴどく怒られるは、さんざん姉と比較されるはで、さすがに参ってしまいましたが、当然自業自得です。

後日、親も呼ばれて云々ありました、持ち主への謝罪と弁償とか色々と大人の事情が。

これで一段落では無く、最悪のことは週明けの児童集会でおこりました。

体育館のステージに、須田姉弟が立っています。

優秀な姉は児童会長として会を仕切っています。
私は端っこに立たされてさらし者になっています。

そこで姉が、「今、目の前にいる須田君は、他人の家の物置のガラスを割った悪い子です。皆さんは絶対にこんなことはしないようにしましょう!」と演説して、私は児童全員から、え~と言われ、うなだれるという醜態をさらしました。

今は、姉と酒の席の笑い話ですが、当時は私もつらく姉もつらいしで大変な出来事でした。

それからというもの、何かに格好付けては、先生が「お姉ちゃんは凄いのにな、なんでお前はそうなんだ!」と、まぁ、言われ続けていました。

昭和40年当時は、子供の数も多くて小学校も少なくて、児童数の増加に合わせて家の近所に新しく小学校が出来ました。

3年生で、その新しい学校に転校をしました。

それまでは毎日バス通学でしたが、それ以降は20分くらい歩いて通学することとなりました。

実はバス通学が凄く苦手でした、バスなんて乗ったことが無いので酔ってしまって、気分が悪くなる毎日で、降りて少しすればすぐに体調は戻りますが、でもこのせいなのかどうなのか、今でいうところの、過敏性腸症候群になってしまい、毎日帰りの時に脱糞していました。

大でトイレに入るとバカにされる時代です、格好のターゲットにされるので、我慢しているんですが、家まで間に合わずにほぼ毎日脱糞していました。

母親からは、「まぁ毎日弁当持って帰って来るねぇ」とあきれられていましたが、家に入ると症状は収まります。

転校する3年生まで2年ちょっとこの症状は続きました。
非常に辛い思い出です。

この転校は一つの大きな転機になった気がします。

1年2年と通して、ベテランの石塚先生が担任でした。
石塚先生は私のことを非常に良く理解してくれていた、大好きな先生でした。
この先生が居たので、おかしなことにはならないで学校に行けたと思いますし、今でも感謝しています。
3年生からは大学出たての新任の中岡先生が担任となりました。
クラスメイトも近所の子供たちだけになりました。

バスで通っていた時は、街に住んでいる子もいて知らない子も沢山いましたが、転校してからは、大多数は近所の顔見知りになりました。

このころ母は近所の農家さんに手伝いに行くようになっていました。
昭和のこのころは女性が働く場所は無く、そもそも結婚した女性が働くことが珍しい、難しい時代でした。
ましてや、国家公務員の家の主婦が外に働きに出ることは、本当に大変な時代でした。

たまたま同級生の子の家が農家を営んでいて、人手が欲しいときにお手伝いに行っていました。

それまでも母は、和裁洋裁の腕を活かして近所の奥さんの洋風と着物を仕立てて、小遣いを稼いで家計の足しにしていましたが、外に働きに出ることはありませんでした。


4年生の時、学校から帰ってくるとまだ母は帰って来てなく、暗くなりだしても帰ってきません。

心配になるよりも腹が減ってどうにもならなくなり、庭に干していた白菜を持ってきて包丁でザクザクと1㎝幅に切って湯がいて醤油をかけて食べました。

これが、私の人生で初めて作った料理です。

当時は、秋になるとどこの家でも漬物を作って漬けていました。
祖母の家には直径60㎝の大きな樽がいくつもあり、我が家にも直径45㎝の樽が幾つもありました。

その漬物用に干していた白菜を切って、茹でて食べたのが人生初の料理でした。

その茹でて醤油をかけただけの白菜が美味しくて美味しくて、一人で半分食べてしまいました。
親が帰って来ても驚くことは無く、半分無くなった白菜を見て大笑いしていました。

ここから、刃物好きの血が騒いで、包丁で切ることと料理に急激に目覚めていきます。

外では相変わらず暴れん坊でしたが、白黒テレビで料理番組を見て、「そうかぁ」と感心したり、ちょっとでも料理をしたくて、外で遊べない雨が降った時などは何かやりたくてウズウズしていました。

3年生から担任になった中岡先生は、何かにつけてビンタをする先生でした。
大学出たての若い先生です、3年生の悪ガキが悪さをしたり先生をからかうと途端に、「気をつけ、歯を食いしばれ、行くぞ」で、ビタンです。

おかげで私は左耳の鼓膜が破れてしまいましたが、子供ですからキーンってするなぁ、まぁ、はたかれたからしょうがないかと気にもしていませんでしたが、大きくなってから、たまたま聴力の検査をしたときに過去に鼓膜が破れて、既に自然治癒していることが発見されました。

父は、中岡先生を“アンチャン先生”と呼んでいました。

社会に出たてのアンチャンだと、面と向かっては言いませんでしたが、先生が何か言ってくると、鋭い眼光一睨みで黙らせていました、そんな恨みもあってか、私は頻繁にビンタされていました。

その中岡先生が、ある日学級新聞を作ろうとなり、初代編集長に私を就任させました。

色々な記事を書きましたが、私が連載したのは4コマ漫画、しかも料理をテーマにした物でした。

構成も、文章も、絵も、勿論レシピも、全て自分一人で行いました。

ハッキリ言って、今とそれほど変わらないことを、4年生で行っておりました。

私のコンサルタントとしての原点は、もしかしたらここかもしれません。

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