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【超解説】 イニャリトゥ監督が「バルド」で言いたかった「欧米か!」

映画を語るという行為は実に赤裸々なことである。語り手の知性や感性が否応なくさらけ出されるからだ。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥというメキシコ人の作品は、最近の映画監督の中で特に語り手の力量を問うものである。
2022年の作品「バルド、偽りの記録と一握りの真実」は、アメリカで活躍してきたイニャリトゥ監督が22年ぶりに母国メキシコで全篇を撮影した作品だ。「バードマン あるいは (無知がもたらす予期せぬ奇跡)」と「レヴェナント:蘇えりし者」で2年連続のアカデミー監督賞を受賞したイニャリトゥの作品だからという気分で観ると、見事に肩透かしを食らうことになる。これは”アメリカナイズ”されまいとするイニャリトゥが母国でぶちまけた、映画の夢だ。こんな映画があってもいいじゃないかという、流れに棹さす一作だ。
かつてフェデリコ・フェリーニ監督は「8 1/2」という映画において、悩める映画監督という自身を投影したような主人公による夢物語を撮った。本作も開始から1時間ほど経つ頃までは、シルヴェリオ・ガマというジャーナリストの主人公にイニャリトゥが自らを重ねている作品なのかなと思っていた。しかし、この予想は良い意味で裏切られた。
それぞれのシーケンス(シーンのまとまり)の先頭にシルヴェリオが目覚めるカットが挿入され、水浸しのメトロ車内や砂漠の大ジャンプ、生まれてきてすぐに胎内へ押し戻される新生児など、ポップコーン気分で観ていると「はあ?」となる。
やっとカメラワークが落ち着き、シルヴェリオの現実が始まったかと思いきや、チャプルテペク城の戦い(1847年)を再現するシーンが始まり、ニーニョス・エロエス(この戦いで死亡したメキシコの士官候補生。英雄少年)が映し出される。「これも夢か」と思っていると、アメリカで大きな賞を受賞したシルヴェリオを称えるパーティ会場のシーンになり、ここでイニャリトゥはタネ明かしに近い会話をシルヴェリオにさせる。
「映画は不確実さの記録」「記憶に真実はない。感情的な信念だ」
そして、テレビ司会者の友人に向かって「君たちのせいで真実はないも同然」と言い放つ。つまり、イニャリトゥはこの”映画”をアメリカ式に撮っていないという宣言である。現実か夢かという問いも無駄であり、一貫性という神話も否定される。トイレで亡くなった父親と語り合い、母親の家を訪ねた後、エルナン・コルテス(アステカ帝国を征服したコンキスタドール)とソカロ広場(メキシコシティ中心部の広場)に山積みにされた先住民の死体の上で会話をする。君は嫌われていると指摘するシルヴェリオに対して、コルテスは「誤解だ」とやりとりをする。
ニーニョス・エロエスという虚飾された英雄譚といい、文化破壊者の代名詞とされるコルテスといい、どちらも”どこまでが真実か分からない”存在である。こういった曖昧な理解に基づいて「メキシコ」という国を語ることにどれほどの意味があるのか、という問いを「真っ白じゃないか」とコルテスに揶揄された白人のシルヴェリオは突きつけられたのだ。息子にも「労働者のことも街のことも知らないくせに」と怒られていた。
その後、Amazonが買収したバハ・カリフォルニア州で家族でバカンスを楽しみ、早逝した息子の灰を海に撒く。ロサンゼルスに戻り、メトロに乗っているとシルヴェリオは脳梗塞を発症し、ベッドに寝かされているシーケンスの中で冒頭の砂漠に戻る。
これは”欧米”なる価値から離れた作品だ。理性や因果律、すなわち一貫性などから距離をおいて、各シーケンスがあたかも黒澤明の「」のようになっている。実際に脳梗塞を発症したというシーンによって、この映画の全てが夢かもしれないという解釈は成立するようになっている。しかし、そんな単純な話ではない。
イニャリトゥはチャプルテペク城(世界遺産)で撮影をし、劇中でコルテスと会話をすることで、メキシコという”国”やメキシコ人という”意識”の中に潜む虚飾、虚偽、インチキを指摘している。それは個人の記憶もまた”感情的な信念”というシルヴェリオのセリフと呼応する。
劇中でシルヴェリオは何度も友人たちから「アメリカに染まった」と冷やかされていたが、そのアメリカの誇る価値もまた曖昧で不確実なものだーー、そういうことをイニャリトゥはこの映画に込めている。そのためには三幕構成を使うわけがないのだ。観客のほとんどは慣れない構成に驚くだろうが、それもまたこの映画の狙いの一つだろう。
劇中でシルヴェリオの父親が言っていた。
「成功は口に入れたら舌の上で転がして吐き出せ。でないと毒になるぞ」
これはイニャリトゥの本心だろう。なぜなら、今日における成功とは”欧米化”することとほぼ同義だからだ。欧米か!

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