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多数派の話はだいたいインチキ / 「マイノリティ・リポート」

スティーヴン・スピルバーグといえば「インディ・ジョーンズ」シリーズをヒットさせて以降、「E.T.」「ジュラシック・パーク」「シンドラーのリスト」「プライベート・ライアン」「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」など、1980年代から今日に至るまでハリウッドのヒット作を次々と送り出した監督だが、実は脚本を手がけることはほとんどない。"専業監督"である。僕にとって映画の心臓とは脚本なので、脚本を手がけない監督としてここまで有名になるのはプロの客寄せパンダだなァと思う。
2002年の映画「マイノリティ・リポート」は、僕の好きなフィリップ・K・ディックの小説が原作になっている、スピルバーグの監督した作品だ。トム・クルーズの大袈裟な演技はこういうSF系によく合う。まだ"駆け出し"の頃のコリン・ファレルも出演していて、もう20年以上も前の映画となったことに驚いている。
この映画のストーリーの根幹には precrime (事前犯罪)という、ディックのアイディアがある。ジョージ・オーウェルが「1984」で描いた thoughtcrime(思考犯罪)に呼応するように、犯罪がまだ発生していないにもかかわらず、ある人物が犯罪を犯す可能性が高いこと、あるいはその傾向があれば逮捕されてしまう、という世界だ。これが"警察国家"となることへの批判であることは誰にでも分かると思うが、この列島では街中が監視カメラだらけになると"防犯になる"と歓迎する声が多いので、そもそも"豚"あるいは"羊"の群れなのだろう。
ちなみに、こうした感覚こそがまさしく全体主義の故郷なのだが、ふつうの日本人は全体主義とは何かということについて教育を受けていないので、善良な市民たちは"防犯になる"と真顔で言える。無知が民主主義をダメにするとはこのことだ。つまり「マイノリティ・リポート」という映画は、日本列島で最も"違和感がなく"受け入れられてしまうのではないだろうか。これが政府への批判であると分かっているのか不安になる。未来予想図、ではないのだ。
ところで、ワシントン・ポスト紙のスローガンは Democracy Dies in Darkness (民主主義は暗闇の中で死ぬ)である。ヨーロッパやアメリカのような自由を勝ち取った人びとにとって、darkness とは光(いわゆる知)に照らされていないこと、すなわち無知であることだ。ものを知らない者は、何が問題であるのか分からない、という姿勢が欧米のスタンダードである。
善良な市民たちは thoughtcrime を犯す訳がないし、行政が precrime を摘発しようと動き始めたとしても、むしろ歓迎さえするだろう。そうして実現される社会に"人間"はいるだろうか。ディストピアとは案外、目の前にあるものである。
スピルバーグ監督は本作が2002年に公開されてから、9/11以降のアメリカで行政が市民を監視するような社会に一石を投じたかった、のようなコメントを出した。これは嘘である。なぜなら、「マイノリティ・リポート」は同じくディック原作の映画「トータル・リコール」の続編を作ろうとして何度も頓挫し、けっきょく2001年3月から撮影が始まった映画だからだ。こういう観客が喜びそうな嘘を平気でつけるところが客寄せパンダの本領である。
という以上のような話は、minority report である。

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