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【超解説】「薔薇の名前」は 404 not found

セーヌ川の左岸に建つフランス国立図書館に「Coislinianus 120」とラベリングされた古い手書きの原稿がある。この写本は10世紀のもので、アトス山の正教会の修道院で最も古いとされるメギスティス・ラヴラ修道院に所蔵されていたものだ。この写本が19世紀以来、学者たちを悩ませてきた理由は、これがアリストテレスの「詩学」の”失われた第二部”を要約したものではないか、という説が否定できないからだ。
なぜそれが重大なことになるかと言うと、ニーチェの「悲劇の誕生」でも題材にされたように、”ヨーロッパ”なるものの知性および文化は、現存する「詩学」によって悲劇に偏重してきたのだが、それは早とちりの結果で、実はアリストテレスは喜劇を重視していたのではないかーー、という説が現実味を帯びるからだ。「詩学」は長らくヨーロッパで失われていて、イブン・ルシュド(アヴェロエス)によるアラビア語版の翻訳が逆輸入されたのだが、二部に分かれていたもののうち前半部だけが現存し、失われた後半部は「喜劇」を扱っていたに違いない、ということをこの写本は示唆している。
この失われた部分を巡って書かれた大ヒット作がウンベルト・エーコの「薔薇の名前」だ。主人公アドソとその師匠ウィリアムというシャーロック・ホームズのパロディを展開しつつ、ヨーロッパにおけるいろんな論争を題材にしたこの本の根本には、”笑うこと”を追求する文化をヨーロッパは失ってきたという問題意識がある。実際に「薔薇の名前」という作品は、教養があれば随所で笑えるように書かれたパロディの連続である。そもそもパロディ(parody)の元になった parodia というギリシア語は「詩学」に書かれたもので、本来の意味は”オリジナルに対して演じられる模倣”だ。これこそがアリストテレスの重視したものだとすれば、ヨーロッパの文化、正確に言えば大文字の”文化”はひっくりかえってしまう。
さて、エーコは「薔薇の名前」の中で、これでもかとあらゆるものを引用したり模倣したり、各頁にハイパーリンクを散りばめている。哲学書や読書の好きな人なら肩の力を抜いて楽しめる作品になっていて、後に解説書が山ほど出版された。また、笑うことについて考察する哲学書も雨後の筍のように出てきた。ところが、エーコの趣旨とは”失われたもの、あるいは初めから存在しないものについて書くということ”だったはずだ。なぜなら、これは宗教の起源そのものだからだ。
このテーマは、エーコが作中に登場させた”ブルゴスのホルへ”のモデルとなったボルヘスも「伝奇集」の中で取り上げていた。たとえば、インターネットのページの中のあるリンクを押したら 404 not found (存在しないページ)と表示された場合、そのリンクは役立たずである。では、存在しない書籍や、存在しない人物について書かれたものは全て役立たずであるか、という問いである。これが人間の知性すなわち文学や宗教などの土台に設置された爆弾だと分からない方は韓流ドラマでも見ることをお勧めする。
つまり、アリストテレスの「詩学」の第二部を巡って書かれているものの、そもそもそれが存在したとしても、しなかったとしても、何かについてハイパーリンクを設置していくことが人間の歩みなのではないか、ということだ。このnoteもまた、どこかの誰かの脳でハイパーリンクになっていれば幸いだ。

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