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映画や小説でアラレちゃんにならない方法

ものすごく単刀直入に言えば、ヨーロッパやアメリカなどの思考や文化、芸術などを把握しようとするなら、キリスト教の素養は必須だ。ルーブル美術館に所蔵されているような絵画も、新潮文庫に収録されている小説も、キリスト教を知らなければピンと来ないだろう。それはちょうど仏教に触れる機会をほとんど失った現代の日本人が、奈良や京都の古刹を巡っても「へぇ」以上の感想を抱かないことと同じである。前回のnoteで取り上げたイニャリトゥ監督の「バルド」にしても、メキシコという国について大まかな知識がないと、どのシーンを観ても「ほよよ?」とアラレちゃんになるしかない。
こういうことを言うとすぐに「映画はエンターテイメントなんだから素養がないと楽しめない作品なんてクズだ」という意見が出てくる。確かにその通りである。しかし、そんな方々のために「ミッション・インポッシブル」や「VIVANT」が存在するのであって、いわゆるアメリカ式の”エンタメ”に当たらない表現もあるべきだと僕は思う。
「ダ・ヴィンチ・コード」や「ベン・ハー」などは、どの観客が見ても映画のスクリーンの背後にあるもの(background)がなるべく分かるように努めた作品だ。そうすると、どうしてもストーリーが単純になるか、説明のためのページ(シーン)が増えてしまい興醒めになることも屢々だ。このように、作り手は観客との間で”何をどれほど共有しているか”ということに注意を払わねばならない。つまり「ノマドランド」のように現代アメリカの貧困層の生活をただ描写するような映画がもっとも撮りやすく、もっとも退屈になる。いま日本列島で新刊として売られている小説の99%は、義務教育より高等なことを背景として求めていないはずだ。ならば大ヒット映画のようにストーリーやプロットを工夫すれば良いものを、”ありのままの日常をみずみずしい感性で描き切った”などという決まり文句で要するに「ノマドランド」をやっている。だから”退屈”で売れないのだ。
さて、黒澤明はどこまでも日本人であり、それを映像にすることで世界中から尊敬される監督になった。外国人にしてみれば、異国の風景の中で登場人物たちが耳慣れぬ言葉を話し、違和感の連続である。それでいてストーリーは誰でも理解できる。無常や輪廻のような仏教じみた世界観はキリスト教の信者にすれば把握しかねるのかもしれないが、それでもなお黒澤明の描く”人物”に世界が共感したのは、アジアの宗教はどれも個人の行動に深く関わってこないので、人物がありのままの姿で動き回りやすいからだ。実際に、この列島に住む多くの人にとって聖書も教会も十戒も関係ないことである。
ところが、哲学の歴史を見ても分かるように、ヨーロッパという地域の”知”とはキリスト教と不可分だ。天使と悪魔、善と悪というモノクロの世界である。この欺瞞を告発しようとしたニーチェはちゃぶ台返しをしようとして、じぶんが梅毒でひっくりかえってしまった。ハイデガーやデリダなどヨーロッパの”知”をその後に支えた人たちは、やれ存在だのやれ音声だの、そういうアイテムを提示することで要するに伝統のちゃぶ台返しをしようとしたのだ。では、長いモノクロの時代は終わっただろうか。”近代”というアイディアからヨーロッパは離れただろうか。僕には全くそうは映らない。ポストモダンと言えばモダンを”超克”したような気になることは、”もはや戦後ではない”と言えば贖罪が済んだような気になることに等しい。だからこそ、少しでも聖書あるいはキリスト教の素養を身につけることで、欧米諸国の文化に接しやすくなるのだ。
僕は007シリーズの大ファンである。ポップコーン映画が大好きだ。また同時に、社会問題や政治、宗教などがテーマになった”お堅い映画”も好きだ。多くの作り手とキャッチボールできた方が得である。

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