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【超解説】 「フルメタル・ジャケット」とは人間のこと

Let me see your war face!
(おまえの戦争ヅラを見せてみろ!)

Gunnery Sergeant Hartman

トロイア戦争からユーゴスラヴィア紛争に至るまで、あらゆる戦争が映画の題材となってきたが、スタンリー・キューブリック監督の「フルメタル・ジャケット」は傑作と言える”戦争映画”の一本だろう。
しかし、僕はこの映画を戦争映画とは思わない。これは人間の姿をじっと見つめた哲学書のような作品だ。この映画が公開される直前、オリバー・ストーン監督「プラトーン」が発表されているが、こちらは戦闘における人間の醜さを描いた名作であり、上映時間の大半が戦闘状態なので戦争映画と呼ぶに相応しい。一方「フルメタル・ジャケット」は、前半でブートキャンプの訓練が描かれ、後半はベトナムでの活動になるものの、語り手の”ジョーカー”は星条旗新聞の記者だ。
さて、キューブリック監督はプロデューサーや脚本家が注文をつけてくるハリウッドの製作方法に嫌気がさし、イギリスに戻ってからは監督だけでなく脚本も手がけるようになり、そこから傑作を立て続けに撮った。「フルメタル・ジャケット」の脚本の中にも、キューブリック監督は”人間とは何か”ということについていくつかメッセージを残している。
そのひとつが duality (二重性)だろう。ベトナムでの活動中に語り手のジョーカーはとある将校から、ヘルメットに書いた Born to kill (殺すために生まれた)という文字と胸元のピースマークが矛盾しているじゃないか、と指摘される。ここでジョーカーはユングの名を出して the duality of man (人間の二面性)と、その場しのぎの言い訳をするのだが、このシーンは映画の核となるところだ。
ユングの心理学は大雑把に言えば”本来のじぶん”と、外面に当たる”ペルソナ”で構成されるのだが、文字とピースマークというアイテムの duality に留まらず、そもそも人間の中身は一貫したものではないというキューブリックの考えをここで垣間見ることができる。すなわち、ハートマン軍曹が言う war face (戦争ヅラ)がペルソナなのか、本来のじぶんなのか。能楽師のつける面のように、人間のペルソナがあるとすれば、それは戦争ヅラも含めて複数の表情を持つのではないか。
この duality ということが映画の題名にも呼応する。すなわち、もし我々が戦争ヅラであれ何であれペルソナのようなものを纏うとすれば、それはちょうど弾芯がメタルで覆われているように、人間という生き物もまたフルメタル・ジャケットのようなものだという解釈だ。
仲間を見捨てないということが第一義の海兵隊において、不出来な”ゴーマー・パイル”をみんなでリンチしたように、逃げようと逃げまいと女子供でも撃ち殺すんだと語る狙撃手に ain't war hell? (ホント戦争は地獄だぜ)と言わせたように、人間こそが地獄そのものの面を持っているのではないかというメッセージだ。このことがラストシーンへの伏線になっている。
物語の終盤、ジョーカーの部隊の隊員たちが次々とスナイパーによって射殺され、やっとのことでスナイパーを撃ち倒してみれば、それはまだ若い女だった。瀕死の女が Shoot me (私を撃って)と苦しみながら何度も懇願する様を見下ろす隊員たちは、文字通りの地獄を見たのだ。かつてリンチの時にゴーマー・パイルを殴ることを躊躇っていたジョーカーが、今度は女を撃つことを躊躇う。良心だとか理性といった綺麗事だけでは済まない心模様がラストシーンで繰り広げられたのだ。それが”戦争のせいだ”と言うコメントは的外れだし、この映画を”反戦映画”だなんて語る奴は何も見えていない。キューブリック監督はこの地獄こそが人間なのではないかと問うている。だから戦争が”続く”のだ、と。
ミッキーマウスマーチを歌いながら兵隊が進むエンディングは、暗い夜のシーンだった。そして、ローリング・ストーンズの Paint It Black (黒くぬれ!)が流れながらエンドクレジットが表示される。キューブリック監督が黒く塗りたかったものは、この映画で展開されるような地獄絵図だろう。そしてそれが、人間自身に由来しているのではないか、と観客に問いかけているのだ。

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