見出し画像

それもまたフィクションですよ / 「アメリカン・フィクション」

僕の嫌いな日本語といえば、"わたし的には〜"という言い回しだ。では、わたし的ではない意見があるのか、と訊きたくなる。自分の意見に責任をとりたくないという意図しか感じられない。あるいは、近頃は社会心理学や認知心理学のせいで"〜バイアス"という横文字も流行している。では、バイアスのない私見とは例えばどんなものがあるのか教えて欲しい。
こういった自らの立場に付帯する"責任"から逃げ続けているとどうなるか、それを描いたコメディが去年公開の「アメリカン・フィクション」だ。これを観て、黒人への偏見が云々ということしか言えない方は、同じミスを必ず犯す。それはこの映画で描かれた一例に過ぎない。本作の趣旨は、いろんな意見が溢れている世で責任を問われずに済む所を"こしらえて"しまうと、そこに群がる人たちは必ず周りの人たちを糾弾し始める、という歴史の事実を指摘することだ。ソ連であれドイツ帝国であれ日本列島であれ、みんなやってきたことだ。
アメリカには黒人への差別や偏見が根強い。これは事実だ。しかしそれを逆手にとって"これこそが黒人文化"と言い出して消費し始めると、そうではない黒人の居場所が狭くなってしまう。本作の主人公エリソン(ジェフリー・ライト)が困惑していたのはこのことだった。日本列島でも同じ原理でつい最近まで差別が"温存"されてきたが、そこから離れたい当事者にしてみれば好い迷惑だったろう。これは消費であったり何らかの補償であったり、金銭の問題である。
一方で、こうした"黒人といえば云々"のような思い込みと言うべきものは、人間がものを把握するときに必要な作用でもある。日本人は味噌汁をよく飲む、という発言は一般論を述べているに過ぎず、これが偏見だと感じる人は火星に移住することをお勧めする。一般論とは"だいたいこんな感じ"という、数学の最小二乗法みたいなものだ。では、一般論と偏見の差はどこにあるか。一般論とは投網だと思えばいい。その網にかかる魚も多いだろうが、もちろん逃してしまう獲物がたくさんいることを漁師は知っている。ところが偏見というものは、逃げた獲物を追いかけて、どうしてお前は網にかかっていないんだ、と怒鳴る漁師のようなものだ。
たとえば、実際に僕が海外で何度も現地の人と交わした会話だ。
"あなたは日本人に見えないね" どうして?
"だって肩掛けカバンをしていないし、メガネをかけていない" 僕は笑う
"それに1人で行動しているし、背が高いし、英語を流暢に話すね"
こんな会話は何度もあったが、僕はこれが偏見だと感じたことは一度もない。なぜなら、こうした意見は全て一般論として当てはまっているからだ。現地の人たちは外国人を見慣れている訳だから、国籍による違いを正確に把握している。
こうした"違い"を指摘することは知性の賜物であって、黒人はスポーツが得意だと言って怒る黒人は頭が悪いというだけの話である。ただの一般論だ。君の話なんかしていないのだが、一般論と各論の区別がついていない脳の持ち主が少なくないこともまた事実だ。
劇中でエリソンは、黒人の一般論としてのイメージで自らが消費されることを嫌がっていたが、それは創作する者として当然のことだろう。売れない物書きとは現実に対してペンで戦う者だからだ。言い換えれば、およそベストセラーとはだいたいの人の一般論に寄り添っているということだ。
先日、ポリティカル・コレクトネスについて少し触れたが、こうした"正義"の側に立つということは、それがすでに一般論ではなく絶対の地位に就いているということが問題だ。たとえば、同性愛について機会を平等にしましょう、と言われたら、僕は大賛成だ。誰でも好きにすればいいと思う。ところが、僕はホモが嫌いだ、と言うことすら許されない風潮はおかしい。僕は平気で言うが。ほとんどのPCにおける問題とは機会のことだと僕は把握しているし、それは全て認められて然るべきだと思っているが、こういう正義の使者たちは、虐げられていたという意識があるからか、今や万能の力を手にしようとしているのではないか。ちょうどイスラエルのように。
「アメリカン・フィクション」はこうした最近流行りの言説もまた"フィクション"であることを暴いていると思う。そもそも言論は自由であるべきだし、それが侵害されてはならないのだ。全ての発言が"わたし的"なのだから、他人の一般論には寛容に、そして偏見ならば指摘してあげて、みんなで違いを楽しむことがより良い社会に向かう一歩となるだろう。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?