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美談と現実のあいだ / 「プライベート・ライアン」

James, earn this... earn it.
(ジェームズ、これをムダにするなよ、帰国しろよ)

Captain Miller, "Saving Private Ryan"

1942年11月13日、第三次ソロモン海戦において、大日本帝国海軍の潜水艦、伊26がアメリカ海軍の巡洋艦ジュノーを雷撃し、撃沈させた。この時、ジュノーに乗り組んでいたアイオワ州の5人兄弟、サリヴァン兄弟は全員が戦死した。このことが米国内で耳目を集め、後に似たようなケースがあったことから、国防総省は「兄弟は分散して配置する」「非常事態を除いて他の兄弟が戦死した場合は帰還させる」という方針をとるようになった。
以上のことが、1998年の映画「プライベート・ライアン」(原題は Saving Private Ryan)において、ノルマンディ上陸作戦でジェームズ・ライアン一等兵を救出することになった事情である。この映画の大まかなあらすじは、実際のノルマンディ上陸作戦において戦死したナイランド兄弟という兵士たちの話に基づいている。僕は初めて観た時に「んなことするわけねぇだろ」と思ったので、米軍の兵士の管理に驚き、あらためて大日本帝国は全ての面で負けていたと思った。
なお、英語のプライベート(private)とは陸軍における一等兵と二等兵を指す単語である。
さて、この映画はなんといっても冒頭の数十分にわたるオマハビーチの死闘のシーンが有名である。実際に米軍は大損害を被った"史上最大の作戦"なので、内臓が飛び出たり、たくさんの血飛沫や身体の一部が飛び散ったり、凄惨な戦場を再現している。スピルバーグ監督は第二次世界大戦を題材にした映画を多数撮っているが、本作には相当力を入れていたことが分かる。
ライアン一等兵を"チームで救出に向かう"という美談はプロパガンダとして機能するし、オリヴァー・ストーン監督ならこれを"ファシスト映画"と呼びそうなものだが、国防総省つまりアメリカという国が制度として"帰還させろ"とその後の戦争でも命じてきたことは事実である。美談/現実という線引きはアメリカの戦争映画に必ず付きまとう問題だ。実際の戦争と戦闘をモデルにしたフィクションなのだから、語られない美談なんて山ほどあるわけだし、現実として語られたことの多くがウソであることもまた歴史の教訓である。政府は必ず嘘をつく。全く検証することが不可能な"ノンフィクション"として公開された「ゼロ・ダーク・サーティ」なんて、プロパガンダと何が異なるのか分からない。
「プライベート・ライアン」ではライアン一等兵が帰還しようとせず、戦友たちと戦闘を継続したいと主張したことで物語が一気に動く。トム・ハンクス演じるミラー大尉をはじめチームの隊員は2名を残して皆戦死してしまう。
生還したライアンは自分が良い人生を歩んできたか、ラストシーンで妻に訊く。この感覚は全ての帰還者に共通するものだろう。自分が生きているということは、かわりに誰かが死んだということだ。ミラー大尉も劇中で戦前は高校教師だったと明かしている。戦争は"市民"が犠牲になる。
こうした戦争映画をフィクションと断じることは簡単だが、本作で描かれたチームの隊員たちの姿を通して、国家/軍隊は国民を守るためにどのように運営されるべきなのかと考えるキッカケになっていると思う。アメリカという国は映画が"教育"としても機能しているから強い。
ちなみに、この作品は今でも第二次世界大戦を扱った映画で最も興行収入があった映画である。

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