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寄り添い合戦

Panasonic DMC-LX3 , 絞り優先AE f2.8 , 1/500sec , ±0EV , ISO80(オート)

とりあえず写真の紹介を。

20年以上前に半分仕事で出かけたイギリスのバースという街の駅での風景です。

世界遺産の街ではあるのですが、大学もあって、街にいる人のバランスがよく、心地よく過ごすことができました。そんなこともあり、電車を待つ間にベンチで戯れている学生さんの楽しそうな表情が撮れたかなと思っています。

「出汁」という謎のネーミングがなされたBento BOX屋さんも写っています。

バース大学(バースだいがく、英: University of Bath)は、バースに本部を置くイギリスの国立大学である。1966年に国王の勅許(Royal Charter)を得て創立された。(wikipedia

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

で、「学生が戯れあっている」ところから、何となく本題。前回の続きみたいなものなのですが。

冷静に問題提起をするのが難しくなっているなあなんて思うのですね。
「弱者に寄り添う」とか「共感を示す」というのが軽くなってしまったというか、インフレ気味というか。

こんなことを書いてしまうと「お前はどっちもどっち論者なのか」「差別主義者なのか」なんて言われてしまうかもしれないけれど、全くそんなことはなく。どちらかと言えば、可能ならば自分が背負っているマジョリティ属性を捨て去りたいと思うぐらいで。

ただ、先日SNSで「お前のような属性を持っている人間は語るな」「議論の場から退場しろ」という言葉をかけられたことを切っ掛けにツラツラと考えているのですけれど、決して当事者にはなれないのだから100%は無理だなと。そして、当事者でない人間も語れる場というのは難しいんだなぁと。

100%を期待している人ばかりではないというのはよく分かっているつもりなのですけれど、どうも「共感合戦」「寄り添い合戦」の様相を呈していないだろうかと思ってしまうことがあるのです。それと、"安易な"共感を示すケースが増えたことで、100%でない人に共感を示されることへの拒否感を持ってしまっているのではないかと。

マイノリティに寄り添うということは、決して「わたしの方がもっと寄り添っている」「いやわたしの方が共感している」「ボクだって」と良き理解者であることを競うことではないと思うのです。

テレビの報道番組の定点観測を趣味とする写真好き。酢豚にもピザにもパイナップルを許容します。

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