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『初めて声を聞いた時』


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「初めて声を聞いた時」



13時前の休憩室。

黙々と食事をする人と、昼寝をする人たちが集う

10畳ほどの空間で、私も昼食を取っていた。


静かな休憩室に、

扉を開けた先の廊下で誰かが話す声が、聞こえてきた。

1人で話しているようだから、電話をしているのであろう。


その声は廊下いっぱいに響いていた。


天井の高い廊下。

普通の声量でも筒抜けるのだから、

強く、堂々と話すその声は

休憩室の中にまで、しっかり響いていた。


他人の話の内容にまで興味を持たない私は、

誰かの話し声が聞こえている…くらいの感覚で、

しばらく食事に没頭していた。


昼食を取り終え、

洗面所に向かうべく廊下に出る。

曲がり角の向こうから、その声はまだ響いていた。


ぼんやりと「まだ話しているのか」と思いながら、

廊下の角を曲がった先で電話をしていたのは

・・・

まさかの、


憧れの、”栗色で艶々の髪の女性”だった。


いつも一つ結びの髪は、ほどかれ

電話の相槌に合わせて、大きく揺れていた。


「オムツや着替えも持たせていたのですが…!」

・・・そんな事を話ながら

落ち着かない様子で、その場所をうろうろしていた。



誰が話しているのか、など考えもしなかったが・・・

まさか

憧れの女性だったとは。


思い起こせば、

私は、その女性の声を知らなかった。


数回会話をしたような気でいたが、

それはたまにすれ違う時に、

マスク越しの「お疲れ様です」を聞いたくらいだった。


その女性がだれかと話している姿も、近い距離では

ほとんど見た事がなかった。

…いや。

過去に一度、

20秒ほどの”乾杯の音頭”を取っていたことがあったが

さほど記憶に残っていなかった。

…随分昔過ぎて。


なぜだろうか。

見た目の、エキゾチックな雰囲気からか、

勝手に、低めのハスキーボイスだと思い込んでいた。

思い込みとは恐ろしい。


実際の彼女の声は、ヴァイオリンのように艶のある、

やや高めの、美しい声だった。


見た目だけでなく、才能や声色まで…

神は一人の人に、いくつ素敵な物を与えたというのだ。


・・・それにしても、

会話の内容が、改めて、気になったところである。


”オムツや着替え”とは…。

50代の女性が、落ち着かない様子で、

そういう単語を発しているとしたら・・・

やはり、誰かの介護、についてなのだろうか?

私は、そんな風に感じた。


ただの邪推に過ぎないけれど。



そういえば、数か月前

私の知人の一人が、

その女性についての不満を口にしていた。

不満というか、愚痴というか、苦しみの告白というか・・・。

知人の告白内容は、こうだ。

「あの人、私が作業中に傍を通る時、突き飛ばしてくるんです…。
 私が作業していても、”すみません”とか”横、失礼します”とかも
 言わないで、横から入ってきて、突き飛ばすようにして、
 使っている物、バッ、と取っていくんです。」

と。

他にも、

自分の後ろに立っている時に、
とても威圧的な態度を取ってきたり、
急き立てる雰囲気を出してきたりする、と。


知人は、本当に参っている、といった具合に口を割った。

話してもいいものかと悩みながらも、誰かに漏らさずにはいられない、

といった雰囲気だった。


正直、

私には、憧れの女性より、知人の方が大切な人だ。

苦しんでいる知人に、少しでも楽になってほしくて

私は、知人の肩を持った。

知人に寄り添いたいと思ったから、

それは素直な気持ちだった。



だけれども…

その知人に対してはどうであれ


私にとって、憧れの女性は、

今も”憧れの女性”であり続けている。



遠目からも分かる、堂々とした姿。

スタイルも、姿勢も良くて、

華やかな顔立ちとは違うけれど、華がある。

何年も使い続けている、

バッグ、眼鏡フレーム、ペットボトルカバー。

持ち物一つ一つを大事にするタイプなのではないだろうか。

いつも手作りの弁当を食べていて、健康に気を使っているようだ。

食事の後は、かならず読書と10分の仮眠。


姿を眺めれば眺めるほど、まさに、

理想の女性像(と、理想の休憩時間の過ごし方)を

体現している人である。

まっすぐで、クールで、知的な人だと、映っている。


だから、知人の苦悩には共感しつつも、

それとは切り離された所で

憧れの女性は、憧れの女性であり続けている。



13時をまわった昼下がりの廊下。

真剣な雰囲気で電話をしていた、その、憧れの女性。


なんだか私には、


勇ましい戦士のように、見えた。


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本日も最後までお読みいただき

ありがとうございました。

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